桜地区指定史跡20ヶ所の概略 (史跡名をクリックすると該当ページが開きます) |
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NO.史跡名 | 概 略 |
20. 一生吹山の歴史 (いっしょうぶきやま) |
1536年(天文8)、若き佐倉城主小林重則が、関一族の峯城主峯盛定を一生吹山の出城(でじろ)で迎え撃つも、敢え無く敗れ矢合川北岸で自害した悲惨な戦争の歴史。 佐倉城主小林家の出自から、攻撃を受けるまでの経緯など歴史的背景に迫ります。 |
19. 鵯岡白滝不動 (ひよどりがおか) |
「鵯岡白滝不動」のお堂は1931年(昭和6)建立。「雨池」の傍の谷間で偶然発見された石像の「不動明王」は、「雨池」の守り仏として祭祀されていました。 現今も、昔の「雨池用水」の恩恵を受けて水田耕作をした受益者の皆様が、小林様を中心に手厚く祭祀されています。 |
18. 雨池用水と大師堂 (あまいけようすい) |
江戸幕府や藩の新田開発奨励策によって、智積村では一生吹山の西北の窪地に「下雨池(通称・雨池)」と、その上手約100mの奥地に「新雨池(通称・瓢箪池)」が築造され、一生吹山麓の田地化が進み、米の増収に繋がりました。 一方、「大師堂」の前方に広がる田地(字円上田)の水源は、「茶々川」と「掘り抜き井戸」を利用していました。「井戸」の傍には「豊かな水」を祈願して石像の「弘法大師座像」が祭祀され、「水飲み場」も造られて人々の「憩いの場」となっていました。後年、瓦葺の「大師堂」が篤志家によって建てられました。 |
17. 智積廃寺跡 (ちしゃくはいじ) |
四日市市最古の仏教寺院跡。発掘調査で、金堂・講堂・僧房が南北一直線に並ぶ伽藍配置と確認され、飛鳥時代末期の創建で約100年間存続したと推定されています。 また多数出土した川原寺式直系の軒丸瓦と、同瓦の出土分布地域、そして当地が壬申の乱で大海皇子が通過したルートに近いことなどから、この寺は”乱”での功績が評価された豪族の氏寺であったと考えられています。 瓦の模様が語る古代史の魅力に迫ります! |
16. 桜観音堂 | 古より村人が守り仏として聖観世音菩薩を慕い続けてきました。今日でも、縁日には安正寺ご住職様の読経と法話があり、大勢の参詣人で賑わいます。 階段横には、佐倉城主の墓石や五輪塔やその他多数の墓石が安置されています。 |
15. 智積御厨と多宝山智積寺 | 智積御厨(ちしゃくみくりや)は1160年代に成立し、1200年に「多宝山智積寺」が創建されました。「多宝山智積寺」は戦乱などで数回焼失するもその都度再建され、遂に明治9年伊勢暴動で焼失しました。 現在、ご本尊の薬師如来坐像と十二神将、閻魔像は南区公会所でお祀りされています。 |
14. 延福寺跡 (えんぷくじ) |
室町時代1458年(長禄2年)の『智積御厨年貢帳』に「小林薬師」として記載があり。戦国時代1529年、戦火で「延福寺」焼失。 1580年(天正8年)、佐倉城主家の小林秀牧は僧侶となり、霊夢によって「薬師如来坐像の仏頭」を発見。「延福寺」を「小林山延福寺」として中興する。 1874年(明治7年)廃寺。現在、ご本尊の薬師如来坐像と他の仏像等々は、西勝寺に客仏として迎えられています。 |
13. 加賀姫と椿岸稲荷神社 | 智積御厨の領家・松木家の息女加賀姫が1605年に建立した「幸田神社」は、元は櫻村南垣内に鎮座していました。1909年(明治42年)、明治政府の神社合祀政策によって、村内の多数の神社とともに「椿岸神社に合祀」され、1960年(昭和35年)「椿岸稲荷神社」と名を変えて、椿岸神社拝殿の東側に再建されました。 桜地区の中世史上、唯一の女性・加賀姫は、90歳の老齢で京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請して「幸田神社」の建立を成し遂げ、以来、同神社は村人に崇敬され継承されてきました。 |
13番外.椿岸神社 (つばききしじんじゃ) |
(註:当然のことに、椿岸神社は桜地区の指定史跡ではありませんが、上記「13.加賀姫と椿岸稲荷神社」との関連で付記します) もと桜町西区字椿尾に在った椿岸神社は、1529年(享禄2)に戦禍を被り、1560年(永禄3)に現在地に再建されました。 現存最古(平安時代11世紀)の古写本・国宝『延喜式九条家本』に記載されている「椿岸神社」・・・古代の様相をご一緒に辿ってみましょう。 |
12. 引石 (ひきいし) |
江戸時代中期、村人は生水川(今の矢合川)の石橋の両橋詰に一本ずつ「引石(石柱)」を建て、その両石柱に一本の綱をかけました。川の増水時には流されない様にその綱につかまって、“南無阿弥陀仏”と唱えながら橋を渡りました。 |
11. 三十三間筒 (さんじゅうさんげんどう) |
三十三間筒は金渓川の底に埋めた樋管です。菰野町の蟹池から引いてきた農業用水は、この樋を通過して桜地区側に取り出され、長い水路を巡って智積町の広大な水田を灌漑します。三十三間筒は智積養水の重要ポイントです。 |
10. 瑞光の石碑 (ずいこう) |
この地の背後を流れる金渓川(かんだにがわ)は、度々(たびたび)氾濫して、丹精込めた田畑は壊滅し、農民はこの上ない難儀に苦しみました。度重なる洪水から村人を救うため、”尼僧”が自ら進んで生き埋めとなった伝説のある石碑です。 |
9. 桜神社跡の碑 | 「桜神社」は往古から1909年(明治42年)に「椿岸神社」へ神社合祀されるまで、桜一色村の産土神でした。石碑には、安濃郡安濃津(現・三重県津市)の儒者山田直行が明治2年に桜神社参詣時に作った詩が刻まれています。 検証!当地では「桜一色村は佐倉村から枝分れした村である」と考えられ言い伝えられてきましたが、果たして真実か? 桜神社に焦点を当てつつ「桜一色村の由来」を考察します。 |
8. 地蔵堂 | 室町時代1429年に幕府との戦いで敗死した伊勢国司北畠満雅の冥福を祈って、後年桜一色村の人々が地蔵菩薩を本尊として建立した寺の名残りのお堂。 当地には「北畠満雅が当地の桜の美しさを愛でて荘園とした」という伝承があります。「北畠氏と北伊勢の関わり」を中心に歴史背景を読み、伝承の糸口に迫ります。 |
7. 八幡神社と山の神跡 (はちまんじんじゃ) |
桜町西区山上の人々は、往古から「櫻岡社」に篤い信仰心を捧げ、明治期の政府による「神社合祀」後もその崇敬心は衰えず、戦後の1947年(昭和22年)、いち早く「八幡神社」として復祀しました。その後も人々の「八幡神社」への敬神の念は並々ならぬものでしたが、2019年(令和元年)、諸般の事情により再び「椿岸神社」へ再合祀されました。「山の神」は、集会所の「教尊法師の碑」の左横へ遷座されました。 |
6. 教尊法師の碑 (きょうそんほっし) |
1461年(寛正2)、近江国神崎郡山上郷(現・滋賀県東近江市山上町)の山田城主であった教尊法師は、蓮如上人の化導によって出家得度しました。城主として、時には求道者として、近江国と伊勢国を鈴鹿山脈超えで何度も往来しましたが、遂に、桜岡の山上(やまじょ。桜地区西区山上)に居を構え、浄土真宗の布教に努めた教尊法師の顕彰碑です。教尊は智積町の西勝寺、桜町の安正寺、平尾町の福泉寺、津市芸濃町椋本の存仁寺の開基です。 |
5. 経塚と経塚山 | 経塚とは、書写したお経を経筒に入れて埋めた所。この地は安正寺所有地で教尊法師の墓とも言われています。 山上の「経塚と経塚山」は、「山上経塚遺跡」として四日市市の遺跡に登録されています。 |
4. 宝木院七福寺 | 1981年(昭和56年)建立。個人の造営により七福神など50数体の神仏が祀られています。 |
3. 金刀比羅宮 (ことひらぐう) |
1935年(昭和10年)、信仰深い村人が近隣の人々の協力を得て「金刀比羅宮」をお祀りしました。当地域には、明治後期まで「稲荷社」が字砂子谷に祀られていましたが、1909年(明治42年)の神社合祀で「椿岸神社」へ合祀され、その跡地には立派な「石燈籠が一対」残されていたので、改めて「金刀比羅宮」へ奉納されました。 |
2. 弁天様と山の神 | 江戸末期1849年(嘉永2年)、桜町西区乾谷(いんだに)の溜池「大谷池・通称弁天池」の守り神として祀られた「市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)別名・弁天様」と「山の神」は、現在は乾谷公会所の敷地内に鎮座します。「弁天様の祭礼」は、毎年7月に幹谷地区の皆様総出でしめやかに催行されます。 |
1. 釣谷林道 (つりたにりんどう) |
1940年(昭和15年)は、初代天皇・神武天皇の即位年から数えて2600年に当たるため、日本各地で「皇紀二千六百年記念行事」が行われました。桜村では、桜村青年団が林道の拡張工事に汗を流した「記念の碑」が坊主尾道の山林側に建てられています。合わせて、同時期の青年団員の働きを記念する貴重な写真も掲載しています。 |