桜郷土史研究会>活動報告(2007年3月4日)
2007-03-13 作成 鈴木 |
「関歴史会」の坂倉廣美さんより、亀山市内の“峯城跡と一心院”の歴史見学会について紹介を頂いたので「桜郷土史研究会員」と共に同行した。 |
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日 時 : | 2007年3月 4日(日) 晴れ Pm. 1:00〜17:00 |
集合場所: | 「桜地区市民センター」で、石川氏・鈴木の2台の車に分乗して現地集合地点の「亀山市川崎町の“JA川崎”」の駐車場で“関歴史会”の会員と合流した。 |
主催者 : | “関歴史会” |
案内講師: | 亀山市教育委員会の亀山氏・山際氏と亀山博物館の中川さんが同行。 |
参加者 : | “桜郷土史研究会員”有志 石川・相場・富田・山本・久川・大橋・永滝・鈴木の8名が便乗して参加した。 全員で50名弱が、関歴史会員の8台の自家用車に分乗して移動。 |
今回、「関歴史会」の坂倉廣美氏より、「関歴史会」の3月例会がフィールドワークで“峯城跡”見学会の案内を頂いたので、希望者有志で参加する。 桜城主・小林豊前守重則の桜は、天文8年(1539年)に関一族である現亀山市川崎の“峯城主・峯盛定”が率いる3千とも言われた大軍に攻められ、若き城主であった小林重則は18歳で自刃して果て、又家臣の多くも殉死したと伝えられています。 桜の中世の歴史では、必ず登場する“峯城主”を会員有志で現地見学会に同行し自分の目で確認した。 |
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「JA川崎の駐車場」⇒ <車に分乗して移動>⇒ 「柴崎公民館前で“峯城跡”についての説明」⇒ 徒歩で「峯城跡域を案内講師の説明を聞きながらの散策」⇒ <車に分乗して移動>⇒ 「一心院で門主の講話を聞く」⇒ <車に分乗して移動>⇒ 「JA川崎の駐車場」に戻り解散。 |
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1.“峯城跡”を散策 (JA川崎の北300m) |
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“峯城”は、貞治6年(正平22年・1367年)に関盛忠の五男の峯政実が、標高85mの丘に東西185m
x 南北72mで東・南・北の三方が崖になった囲まれた山城である。 以降10年間峯氏の居城であったが、天正2年(1574年)峯八郎四郎が伊勢長島で討ち死にしたため峯氏は滅亡。 その後は、岡本宗憲が城主となったが天正12年(1583年)亀山城主・関盛信の臣若藤左衛門が滝川一益に通じ、峯城の岡本宗憲を攻め滝川儀太夫によって落城した。 同年羽柴秀吉は、大軍を率いて峯城を攻め落城し北畠信雄の臣佐久間正勝が城主となった。 |
( JA川崎よりの“峯城跡”遠景 ) |
( あの山の中へと躊躇う乙女達? ) |
( 「柴崎公民館」で亀山氏の説明風景 ) |
( 二ノ丸・本ノ丸の帯曲輪の説明 ) |
( 山中で熱心にメモを取る参加者 ) |
( 天守台への登り口での注意事項 ) |
( 天守台への向かう急な山中の道 ) |
( 天守台は狭い台地であり櫓位? ) |
( 史跡“峯城跡”の説明板 ) |
( 柴崎公民館に戻り山際氏補助説明 ) |
2.“一心院”の見学 (川崎郵便局の南200m) |
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住職より、壬申の乱(672年)大海人皇子(後の天武天皇)が吉野を出発し東国(美濃)へ進軍したコースに当たり、その際一行が休息した川曲の坂下と言われている。 日本書記に「大山を越えて、伊勢に至る。川曲の坂本に至りて日暮れぬ。皇后疲れたまふ以で息む」とある。 川曲の坂本が、一心院が建っている当地である。 又、大海人皇子の一行が伊賀の大山越えて伊勢に入り、鈴鹿駅家(現亀山市関町)からに向かい、雨に濡れていたので三重川(現内部川)ほとりの采女で家を1軒焼いて暖をとったとされている。 住職は、本当は“一心院”の横に公道があり一行はその道を東に向かったと話された。 ・・・・ 戦いに向かうため急いでいる一団が、距離的に遠回りの道を進軍したのには相当無理がある節と感じた。 |
( “一心院”の前に建っている説明板 ) |
右の説明板“川曲の坂下・ 一心院縁起と一本の道“の 続きは、「墓地にあり」と 書かれているので別の機会に 調べてみることにする。 今日の説明会は、城跡見学 で時間を費やしたので遅く なり写真撮影はこの1枚のみ。 |
「HOME」へ | 2007年3月15日掲載 |