1.郷土の相撲ファン


 あなたは、相撲ファンですか?
 明治時代の初期、我が郷土にも熱烈な相撲ファンがいました。
 とは言え、ラジオも新聞もまだ普及していない時代のこと、東京や大阪で華やかに興行される大相撲など、実際には殆どの人が見たことがなかったのです。
 では、どうして相撲ファン足り得たのでしょう?

  1. 江戸土産として人気のあった相撲錦絵(すもうにしきえ)が相撲熱を煽りました。
    錦絵とは、多色刷浮世絵版画のことです。
    錦絵は、明和2年(1765)、世界に先駆けて始まったカラ−印刷で、「錦のように美しい」と言われたところからこう呼ばれ、おおいに人気を博し、大量に複製され比較的安値で売られました。
    錦絵のうち相撲錦絵は、日本各地から集まった力士たちが、力いっぱい競い合う様子や、個々の力士の肖像などが、画面いっぱいに描かれた錦絵で、美人画や歌舞伎役者絵のように、ブロマイドとして数多く売り出されました。(次ページ参照)
    色鮮やかな力士の錦絵は、当時の相撲ファンをして、その勇姿を彷彿とさせるに充分だったのです。
  2. 様々な情報を携えてやって来る遠来の客から、相撲の情報(じょうほう)を収集する手もありました。
    当時から、我が郷土の智積村(ちしゃくむら)と桜村は「酒造」で有名でしたので、商人の往来も多く、桑名郡や員弁郡方面からもかなりの情報が入って来たと考えられます。
    古今東西、何事であれ情報収集の必然なることは、誰も異論のないところでしょう。

  3. そもそも三重県の北勢地方は、幕末から明治期にかけて草相撲(くさずもう)の盛んな土地柄でした。
    明治以降から(第二次世界大戦中を除いて)昭和30年代までの期間、郷土の「椿岸神社(つばきぎしじんじゃ)」で毎年10月15日に秋祭りが開催され、神社境内の真ん中に設けられた土俵では「神前相撲大会」が催されました。郷土の草相撲力士達は、近郷から他流試合に来た力士達と力一杯腕を競い合いました。(註:現在、椿岸神社の子ども相撲の”土俵”は正殿に向かって左側)
    これと言って楽しみの無い時代の事、当日、神社境内は近郷からの見物人も繰り出して大賑わいでした。そしてまた、近郷の村々で催される相撲競技には、私たちの村の力士も欠かさず出場して、精一杯競い合い腕を磨いて、草相撲愛好家同士の親睦を図ったそうです。当時の相撲熱が伝わってくる話です。

  4. 草相撲が盛んであった理由として考えられること
    • 近隣の菰野藩(こものはん)では、第七代藩主土方雄年(ひじかたかつなが)が、寛政2年(1790)と6年(1794)の2回にわたり、江戸大相撲を城下にて興行しています。藩主雄年お抱え力士であった菰野出身の「伊勢ヶ浜荻右衛門」が、前頭としてこの大相撲一行に名を連ねました。
      明治時代前期には、菰野出身の力士「増位山浪五郎」は東京大相撲、「鳥羽海」は大阪春のえびす講相撲でそれぞれ活躍しています。
    • 少し離れた桑名藩(くわなはん)では、江戸時代後期、お抱え力士として「境川浪右衛門(4代)」と「四海波静太夫」の強豪がいました。   

  5. これに”負けじ”と我が郷土からは、明治初頭、智積村の「君ヶ嶽重五郎(きみがたけじゅうごろう)と「勢イ力八(いきおいりきはち)の二人が、東京大相撲の境川部屋へ入門して、「君ヶ嶽重五郎」は明治元年、「勢イ力八」は明治6年に、それぞれ初土俵を踏んでいました。だから、もう、いやがうえにも相撲熱はヒートアップしていたのです!               
 こうして我が郷土のあちこちで、相撲に魅了された人々が、各自知り得た情報を持ち寄り、錦絵を囲んで、あれやこれやと相撲談義に興じる姿がみられた、そうです。
そして、最後には、いつも大きな”ため息”が出るのです。
「あ〜あ〜、それにしても、堂々たる体格の力士達がぶつかり合う大相撲を、一生に一度でいいからこの目で見たいものだ!」と、誰もが夢(ゆめ)をみていました。


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