6.勢イ力八「こぼれ話}


 勢イ力八が、真に故郷へ錦を飾ったのは、「君ヶ嶽重五郎の追善供養」の願主となって来村したときでした。 この時、力八は未だ幕下でしたが、中央の相撲界での活躍は、郷土のおおいなる誉れであり、堂々の帰郷でした。

 さて、故郷に錦を飾った勢イ力八の「歓迎の宴」が開かれたときの事です。
 その宴会に、智積村(ちしゃくむら)五俵力(ごひょうりき)の男も招かれていました。

 五俵力の男とは、米俵を五俵担ぐことが出来る男子のことです。
 当時の米俵は、1俵が18貫目(約67.5kg)ありました。
 それを5俵も担ぐというのですから驚きです。
 しかし、どうやって担ぐのでしょう?
 先ず、両肩に1俵ずつ、その上に3俵を積み上げてもらうのです。 
 総量約340kg!
 そんじょそこらの力持ちではないことがお分かりでしょう。


 話を「勢イ力八歓迎の宴」に戻そう。
 何分、有名な力八の前ですから、五俵力は遠慮して、末座で、大きな体を小さくして座っていました。
 宴席に顔を出した力八、目敏く五俵力の男を見つけて、上座に座るように勧めますが、五俵力頑として動きません。
 そこで力八、両手をむんずと差出し、五俵力の男を座布団に乗せたまま持ち上げ、ずしん、ずしんと上座に運んで据えたと言うことです。 
 その様は、「あたかも三宝(さんぽう)にのせた鏡餅を床の間に飾るようであった。」と、永い間の語り草でした.。


「勢イ力八」こぼれ話、もう一つ。
 同じく追善相撲供養の折、力士達の宿は柏原宅であったが、その庭に運び込まれた米俵の端を片手でひょいと持ち上げ、屋根の軒瓦を俵で指しながら、一枚、二枚と瓦を数えながら歩いて、居合わせた村人を感嘆の渦に巻き込んだそうです。
 何枚まで数えたかは語り継がれていませんが、なんともはや豪快な話ではありませんか。

ー 完 ー    


【参考】明治時代、北伊勢に於ける米俵1俵の重さ 
        (参考文献:『四日市市史第12巻』「三重朝明郡精撰米組合規約」明治19年9月)
米1俵の重さ 1俵の枡量は4斗2升。 
(このうち2升は輸送中に生じる漏脱米を補う附加米で、入レ米、口米、込米、さし米などと呼ばれ、1斗に付き5合を加えた米を1俵に入れる慣行があった)
米1斗=15kgで換算すると、米1俵=4斗2升=63kg
俵の重さ 1貫200匁=4.5kg  (1貫=3.75kg)
(乾燥した藁で二重俵とし桟俵や太縄とも合わせて1貫200匁以内とされた)
米俵1俵の重さ 米63kg+俵4.5kg=米俵1俵67.5kg =18貫  
                                   (文責: 永瀧 洋子)


  • 参考資料:西勝精舎聞書抄(山田教雄著)、日本相撲史(横山健堂著)、相撲大辞典(金指基著)、相撲錦絵発見記(ジョージ石黒著)、季刊東海の相撲史(東海相撲史談会発行)、『大相撲人物大事典』(株式会社ベースボール・マガジン社)、『相撲評論家之頁』様のホームページ。
  • 「君ヶ嶽十五郎」、「勢イ力八」、「勢海浪五郎」に関する相撲歴等の情報は、「相撲博物館」の草野えり様からご提供頂きました。(「日本相撲協会」へのリンク)
  • 「君ヶ嶽重五郎」については、智積町の坂倉武治様にご協力をお願いしました。
  • 草相撲に関する情報は、智積町の坂倉繁雄様にお聞きしました。
  • 「勢イ力八こぼれ話」は、桜郷土史研究会の元会員の故吉田弥栄様(智積町)にご協力頂きました。
  • 「相撲史跡研究会」の竹森章様には、「君ヶ嶽重五郎」や「勢イ力八」に関する情報のご提供及びご教示を賜りました。
  • 「明治9年6月の番付」のコピー提供は「相撲史跡研究会」の杉浦弘様、「同番付」の解説は同会の森國弘様にご教示賜りました。
2002年10月13日掲載2002年11月18日更新、2003年11月4日更新、2011年3月22日更新 2018年4月20日更新
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