桜の史跡NO.12
         
                              
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目   次
 1.引石(ひきいし)とは?
    「引き石の現状]
    「生水橋と引石の位置図」
 2.南岸(右岸)の引石
 3.北岸(左岸)の引石
 4.矢合川には5ヶの石橋が架かっていた
 5.「参考」村名・川名・橋名・引石の推移


引石(ひきいし)とは? 

引石の想像図

  • 四日市市桜地区内の真ん中を流れる「矢合川(やごうがわ)は、江戸時代には佐倉村の地内では「今井川(いまいがわ)、智積村(ちしゃくむら)の地内では「生水川(しょうずがわ)と別々に呼ばれました。

  • 江戸時代の寛政7年(1795)、智積村の生水川に架かる石造りの「生水橋(しょうずばし)の両岸に、石柱が一本ずつ建てられました。この石柱を当時の人々は「引石(ひきいし)と呼びました。

  • この「引石」には、上図のように普段から1本の(つな)が張ってありました。梅雨などで川が増水すると、橋の上を水が流れて通行上非常に危ないので、通行人がその綱を手摺りとして橋を渡れるようにと安心安全への配慮でした。

  • 「生水橋(しょうずばし)」と「四日市往還(おうかん)
     四日市往還は、東海道四日市宿から、智積村の生水橋を渡り佐倉村を通って、菰野藩一万二千石の城下を往来する道で、城下町や湯の山温泉を訪れる旅人や商人ばかりでなく、 菰野藩主も参勤交代の際には通りました。つまり「生水橋」は、人の往来が盛んな「四日市往還」または「菰野道」と呼ばれた道路の重要な橋でした。

  • 「引石」が設置された理由
     現在私達が目にする「矢合川」は、浚渫(しゅんせつ)工事によって川底が深くなっていますが、「生水川」と呼ばれた頃には、川の深さが最も深い所で90pと非常に浅い川でした。(『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』)
    「生水橋」には欄干が無かったので、夜間や強風の時も危険でしたが、ましてや雪解け・梅雨・台風などでわずかでも増水すると、たちまち川上から押し寄せた水が橋の上を流れ、橋を渡ることが非常に危険な状態になりました。
     菰野城下と四日市宿を結ぶ四日市往還の「生水橋」が渡れないと様々な支障を来たします。
     それを解消する手段として、寛政7年(1795)に「南無阿弥陀佛」の文字を刻んだ「引石」が考案され建てられました。

     昔から、「生水川が少しでも増水するとすぐに橋の上を越えたので、通行人は引石の綱を手摺りとして「南無阿弥陀佛」と唱えながら命がけで橋を渡ったものだ。」と伝えられています。

  • 役目を終えた「引石」
     大正10年(1921)、国鉄四日市〜湯の山間のバス運行(菰野自動車)開始に先立つ橋の架け替え工事で、生水橋は撤去され、新たに欄干付きの石製橋が架けられました。
     この頃には、桜村と智積村を流れる川名が統一されて「矢合川」と改名されていたので、この橋は「矢合橋」と名付けられました。
     そして、この時「引石」は無用となって取り払われました。

     「南岸の引石」は、引石の裏に刻まれた文字「南無阿弥陀佛」のご縁で、昭和末期に西勝寺境内に設置していただきました。
     「北岸の引石」は、永年智積町の民家で大切に保存されていましたが、平成25年10月2日に西勝寺境内に移設され、遂に一対の引石が並び立ちました。

  • このように自然災害時の人命救助用の石柱「引石」は、他所ではあまり見られない非常に珍しい歴史的遺物で、自然に逆らわず、自然と共存した先人の知恵を伝える貴重な桜地区の財産です。

 【引石の現状】     所在地・四日市市智積町693 西勝寺境内

   西勝寺の山門を入って、境内のすぐ右手にこの様に設置されています。 
引石の現状(西勝寺境内)
                (2013年10月9日撮影)
「引石」の元来の位置は、下記の「生水橋と引石の位置図」でご確認ください。

 【生水橋と引石の位置図】
(註)四日市市GISに、昔の生水橋と引石などの「位置」を書込んだもので実寸ではありません。明治17年の測定値は、C「矢合川には5ケの石橋が架かっていた」をご参照ください。                  (参考文献:『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』)


南岸(右岸)の引石
 
 下記の写真は、「生水橋(しょうずばし)」の南岸(右岸)に建てられていた「引石」です。(右岸とは、川の下流に向かって右手の岸) 
南岸の引石-碑表
碑表:「高水の時なわ引石」
南岸の引石-碑裏
碑陰:「南無阿弥陀佛  願主久兵衛
           (2013年10月9日撮影 西勝寺境内)
 刻字  碑表・・・「高水の時なわ引石」
      碑陰・・・・「南無阿弥陀佛 願主久兵衛」
      碑右側・・・・多数の文字が刻まれているが判読困難
      碑左側・・・・同上
 石柱の寸法   幅140×奥行150×1,370mm
 



北岸(左岸)の引石
 北岸の引石は、大正10年(1921)に橋の架け替え工事以来、折損して行方不明とされていましたが、2004年5月14日、智積町の矢合川北岸の民家の庭に下記の状態で丁重に保存されていました。(発見者:当会の鈴木健一氏)  この「北岸の引石」の刻字から、引石の建立年代が明確になったのは大きな成果です。

 それから9年後、2013年10月2日、西勝寺境内に移設させて頂きました。

北岸の引石
 2004年(平成4)5月、智積町の民家の庭で撮影。
北岸の引石-碑表
碑表: 夜分□
北岸の引石-碑裏
碑陰: 南無阿

             (2004年5月撮影)

  刻字内容 (折損していますが、刻字は右岸(南岸)の引石よりやや鮮明)
碑表・・・・ 「夜分□」
碑陰・・・・ 「南無阿」
碑右側・・・ 「諸職人□□□」(多数の文字が刻まれているが判読困難)
碑左側・・・
「寛政□卯三月」(1行目以下折損)
「文化□寅五月」(2行目以下折損)
  寸法
石柱・・・・・・・・・・・ 幅140×奥行145×高400mmで折損
台座部(コンクリート)・・ 幅250×奥行250×高300mm

  • 引石の建立年について

    平成2年当会発行の『続ふるさとの生活誌―大正時代を中心に―』に、
          「寛政年間に引石が建てられた」ことが記されています。
            
    北岸の「引石」の左側面の刻字内容 
    寛政□卯三月: 寛政年間の卯年は寛政7年で、判読不明の□は「乙」となり、
             寛政乙卯三月=寛政七年三月=1795年3月と判明
             「建立」を意味する決定的な文言は無いものの、これが建立年と考えられます。

    文化□寅五月: 文化年間の寅年は文化3年で、判読不明の□は「丙」
             すなわち文化丙寅五月=文化三年五月=1806年5月となります。
             この年月が何を表すのかは不明です。



矢合川には5ヶの石橋が架かっていた
 
 このページのトップで述べたように、江戸時代から明治22年まで、今の「矢合川」は、川上の佐倉村地内(明治8年から桜村)では「今井川(いまいがわ)」、川下の智積村地内では「生水川(しょうずがわ)」と別々に呼称され、石造の橋が佐倉村内に3ヶ、智積村内に2ヶ架けられていました。
   (詳細は、最下段の@村名、川名、橋名、引石の推移をご参照ください) 
  • 「引石」が建てられたのは「生水橋」だけです。

  • 村別の川名と各測定値
    村名 川名 橋名 川幅
    (m)
    橋長さ
    (m)
    橋幅
    (m)
    橋下深
    (cm)
    道路名
    佐倉村
    (桜村)
    今井川 上今井橋 10.0 7.3 1.1 12 巡検道
    中今井橋 14.5 9.1 1.1 21 石薬師道
    下今井道 20.0 12.4 0.9 21 亀山道
    智積村 生水川 上生水橋 12.7 9.1 1.4 27 亀山道
    生水橋 16.4 16.4 1.5 30 四日市往還
    (註)
    橋は川上から川下へ順に表示。両村にあった「亀山道」は、いずれも南方へ坂道を登り、尾根伝いの四日市道(現県道753号線。桜運動広場前の道)を西方へ向い、巡検道(国道306号線)を通って亀山へ出ました。


  • 「生水橋」以外の石橋の特徴

    ●上表でお分かりのように、「生水橋」以外の4ヶの石橋は、「橋の長さ」が「川幅」よりも狭く、また橋下が12〜27cmとたいへん浅く、非常に特徴ある橋でした。
    ●このような架橋工事が簡単で廉価な石橋は、普段は土手から川原に降りて渡ることができてそれなりに便利でしたが、増水時には水面下に没してしまいました。
    ●したがって、「引石」も在りませんでした。
    ●当地では、この石橋を「低橋(ひくばし)と呼びましたが、現在は一つも残っていません。
     一般的には、このような石橋は「沈下橋(ちんかばし)、潜水橋、沈み橋などと呼ばれます。
     三重県下で「沈下橋」と呼ばれる橋は、現在も櫛田川や名張川の数ヶ所に大きく立派な橋がありますが、勿論「引石」はありません。

  • 「生水橋」の特徴
    矢合川に架かっていた橋のうち、「生水橋」だけは「橋の長さ」と「川幅」が16.4mで同じ長さです。
    つまり冒頭の想像図のように、北岸から南岸まで川幅いっぱいに橋が架けられ、道と橋が殆ど段差無く直結して、当時としては、通行上非常に利便性の高い立派な石橋であったようです。

  • なぜ「生水橋」は立派だったのか?
    冒頭で述べたので繰り返しになりますが、智積村と佐倉村の中を縫うように走る道は、“四日市往還”または“菰野道”と呼ばれ、菰野〜四日市間の主要幹線道路でした。この道に「生水橋」が架かっており、江戸時代には菰野藩主も参勤交代でここを通り、日常的には商人、旅人、牛車、馬車、荷車などの往来が多かったので、道路と石橋の段差を解消しスムーズな通行を確保して交通の便宜を図り、加えてこの橋が四日市方面から当地への入り口、いわば“玄関”ということで、先人の心意気がここに結集されたのだと推定されます。

  • しかし、
    このように「生水橋」は立派な石橋ではありましたが、逆に増水時には他の低橋よりも水流の大きな障害となることが難点で、川上から激流となって押し寄せた水が橋の上を流れるや否や、またたく間に辺り一面が氾濫原となり、付近の田畑も冠水し、そうなればこの橋に辿り着くことさえも一苦労であったと思われます。
    このような橋であったからこそ、「引石」が考案され設置されたのですが、増水し始めた初期段階とやや緩流になる終息段階には大いに役立ったものの、洪水のピーク時にはさすがに敬遠されたのではないかと思われます。



【参考】村名・川名・橋名・引石の推移 

 江戸時代から現代に至るまで、村名・川名が大きく変化しました。
 以下に、関連事項を作表して整理しました。
  • 村名、川名、橋名、引石の推移
    時代 年月日 出   来   事
    〜 戦国時代
     1561年(永禄4)頃
    現・矢合川は「智積川」と呼称されていた。(出典・『勢陽五鈴遺響』安岡親毅著)
    江戸時代

    伊勢国三重郡智積村佐倉村桜一色村の3村でした。
    現・矢合川は、智積村地内では「生水川」、佐倉村では「今井川」と呼称され、生水川には生水橋を含むニケの石橋、今井川には三ヶの石橋が架かっていた。
    江戸時代、
    寛政7年(1795)3月
    四日市往還に設けられた「生水橋」の両岸に「引石」が建立される。
    明治8年
    (1875)
    佐倉村と桜一色村が合併して桜村と称し、智積村と2村となる。
    明治22年
    (1889)
    桜村と智積村が合併して桜村と称し、1村となる。
    これを機に「生水川」と「今井川」は、「矢合川」と統一改称される。
    大正10年
    (1921)
    バス運行の事前工事で「生水橋」が撤去され、欄干付きの「矢合橋」が架かる。
    「引石」は無用となり廃棄され、行方不明となる。
    昭和8〜11年
    (〜1936)
    外周道路「新道」と「新矢合橋」が建設され、バスはこの道を通る。
    昭和29年(1954) 四日市市へ合併、四日市市桜町智積町の2町となる。
    昭和50年頃
    (1975)
    老朽化した矢合橋は撤去。新矢合橋の重要性が増し漸次「矢合橋」と呼ばれる。
    平成21〜22年
    (2002)
    既存「矢合橋」を撤去して、拡幅設計の「矢合橋」が建設される。
    平成25年(2013)
    10月2日
    生水橋の両橋詰に建てられていた「引石」は、大正10年(1921)以降、別々の運命を辿るも遂に並び立ち「一対の引石」として西勝寺境内で保管される。

                    (2013.10.13  文責:永瀧 洋子)

参考文献:『明治17年調べ伊勢国三重郡智積村地誌』、『明治17年調べ伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、『続ふるさとの生活誌―大正時代を中心に―』(平成2年桜郷土史研究会発行)