 |
(2021年11月改訂版) |
① 「桜の史跡NO.1 釣谷林道」 解説のページへ
② 「桜の史跡NO.2 弁天様と山の神」 解説のページへ

③ 「桜の史跡NO.3 金刀比羅宮」 解説のページへ

⑤ 「桜の史跡NO.5 経塚と経塚山」 解説のページへ

⑥ 「桜の史跡NO.6 教尊法師の碑」 解説のページへ

⑦ 「桜の史跡NO.7 八幡神社と山の神」 解説のページへ

⑧ 「桜の史跡NO.8 地蔵堂」 解説のページへ
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⑨ 「桜の史跡NO.9 桜神社跡の碑」 解説のページへ

⑩ 「桜の史跡NO.10 瑞光の石碑」 解説のページへ

⑪ 「桜の史跡NO.11 三十三間筒」 解説のページへ

⑫ 「桜の史跡NO.12 引石」 解説のページへ

⑬ 「桜の史跡NO.13番外 椿岸神社」 解説のページへ

【註】上掲は、神社側が石碑に刻んだ碑文である。(他と異なる)
⑬ 「桜の史跡NO.13 加賀姫と椿岸稲荷神社」 解説のページへ

⑭ 「桜の史跡NO.14 延福寺」 解説のページへ

⑮ 「桜の史跡NO.15 智積御厨と多宝山智積寺」 解説のページへ

⑯ 「桜の史跡NO.16 桜観音堂」 解説のページへ
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⑰ 「桜の史跡NO.17 智積廃寺跡」 解説のページへ

⑱ 「桜の史跡NO.18 雨池用水と大師堂」 解説のページへ

⑲ 「桜の史跡NO.19 鵯岡白滝不動」 解説のページへ

⑳ 「桜の史跡NO.20 一生吹山の歴史」 解説のページへ
data:image/s3,"s3://crabby-images/472a9/472a9577298607693fe9765268d130560065976b" alt="一生吹山の歴史
佐倉城主小林重則は、天文八年(一五三九)この
一生吹山に砦(とりで)を築き、来攻した鈴鹿郡峯城主峯
盛定と対戦したが、利あらず矢合川北岸で自刃(じじん)
した。時に重則十八歳、自刃して果てた地を後
に殿原(とのはら)と呼び、旧名生水(しょうず)川(今井川)を矢合川と改
めて激戦の様子を偲(しの)ぶよすがとした。
一生吹山は出城(でじろ)山とも呼ばれ、毎年七月一日
に「デジロ祭」があり、若き城主の痛恨を慰霊する
行事は近世まで催されていた。また、ここには
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が祀られ、安
産の神として信仰されていたが、明治四四年椿
岸神社に合祀(ごうし)された。
その後、村の有志の人々により信貴山の毘沙(びしゃ)
門天(もんてん)を勧請(かんじょう)し、お祀りして現在に至る。毎年四
月三日の例祭には植木市などで賑(にぎ)わうが、明治
・大正の頃は松茸狩りが盛んで、「十月中旬頃は
全山松茸狩りに満ち歓呼の声絃歌(げんか)の響きで賑わ
う」と、当時の四日市鉄道(近鉄湯の山線)の沿線
案内は宣伝している。
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