(2021年11月改訂版)


 「桜の史跡NO.1 釣谷林道」 解説のページへ
釣 谷 林 道(つりたにりんどう)
 
    昭和十年から十二年頃の話である。
  当地紀元二千六百年事業(神武天皇即位の年を
  西暦紀元六六〇年と定め、これを皇紀元年とし
  たもの)が全国各地でおこなわれていた。
     桜村の青年団では、当時の団長石川匡(医師
)を中心に、ここから始まる村有林に通じる林
道の拡張工事を実施した。  
     昔は、機械もなくツルハシ、スコップ、鋸な
  どによる手作業であり、ほんの少し農業の手が
  すく冬の間、三年間にわたってそれは難儀な作
  業がおこなわれた。
     作業の間の楽しみは、焚き火をしながら団長
  からの差し入れのせんべいを食べることであっ
  たと当時の青年団員は語っている。
 この事は、昭和十五年伊勢神宮での全国記念
  事業報告大会で報告され、記念にこの石標が建
  てられたものである。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
       桜 郷 土 史 研 究 会




 「桜の史跡NO.2 弁天様と山の神」 解説のページへ
弁天様と山の神
 大谷池・大谷社について、桜村地誌(明治十七
年編)は「嘉永二年(一八四九)春この池を掘らんこ
とを領主に出願し、同年八月着手し二年余で落  
  成す。その際出役官吏は津藩司農、高橋省五郎 
  この池水の永遠に潦へし守と厳島の神を斎(いつ)くべ 
  しと命ぜらる。神籬磐境(ひもろぎいわさか)の古事に倣(なら)ひ一社を祀 
  ると云、是大谷社なり」と記す。さらに、大谷 
社については「嘉永三年創立、祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を
祀る。祭日毎年七月十四日」とある。
    大谷池は、この乾谷(いんだに)公会所の西北、大谷に在
  る溜池であるが、祭神の通称弁天様に因(ちな)み、弁
  天池と呼ばれている。当初祀られた場所は池の
  北東で、すでに山の神が祀られていたので神籬
  磐境(神苑の垣根)をして祀られた。
    しかし、終戦後池の南に移されていたが、こ
  の公会所が新築されると当所に移され、二度目
  の遷座(せんざ)である。また、山の神の祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)
  であるが、今も両神は古事に倣い神籬磐境をも
ってお祀りされている。

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              桜 郷 土 史 研 究 




 「桜の史跡NO.3 金刀比羅宮」 解説のページへ
 金 刀 比 羅 宮
   斧研の山中吉五郎さんは日頃から四国の金刀
  比羅宮を深く信仰していたので、金刀比羅さん
  を近くにお祀りしたいと念願していました。今
  の社の付近は、樹木が少なく見晴らしのよい四
  国の本山のたたずまいによく似ており、此の地
  を借りて金刀比羅さんをお祀りすることにしま
  した。
    庭師でもある山中吉五郎さんは、数人の弟子
  と共に昭和六年八月十三日工事にかかり、四年
  余りの歳月と延べ人数六〇〇名以上の青年団や
  村の方々の奉仕に支えられ日頃からの夢を実現
  させました。
    完成祝いは昭和十年十月十日盛大に催され、
  一の鳥居は後日清水力、浜子さんご夫妻より、
  石灯籠は山麓に鎮座されていた稲荷神社(椿岸神
  社に合祀)に坊主尾の氏子一同より奉納されたも
  のを奉納し、現在に至っております。
    四国の金刀比羅宮は海の守り神として有名で
  全国の漁業、海運業に携わる人々から広く信仰
  を集めており、その昔には伊勢参りについで参
  詣者が多かったと言われています
              桜地区地域社会づくり推進委員会
              桜 郷 土 史 研 究 会




 「桜の史跡NO.4 宝木院七福寺」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.5 経塚と経塚山」 解説のページへ
 経塚と経塚山

 経塚山は海抜約八十六メートルの小高い山で
  頂上の塚付近が安正寺の所有である。
  経塚とは、書写したお経を金銅や陶製の経筒
  に入れて土中に埋めた所で、仏像や仏具も共に
  埋められることが多く、平安時代中期から江戸
  時代にかけて全国各地で盛んに作られたもので
  ある。
 平安時代には、仏教の教えが衰退してしまう
  という危機意識(末法思想)が広まり、後世に
  大切な経典を残そうとしたもので現代で言うタ
  イムカプセルである。
 そしてまた、経塚を造営することによって極
  楽浄土へ往生を願うという意味もあったようで
  ある。
  この経塚が各地と同様のものかは不明である
  が、一説には遠く滋賀県から伊勢の地へ布教に
  赴き安正寺や西勝寺を建立し、山上(やまじょ)にも碑があ
  る山田教尊の墓所と言われている。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
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 「桜の史跡NO.6 教尊法師の碑」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.7 八幡神社と山の神」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.8 地蔵堂」 解説のページへ



 「桜の史跡NO.9 桜神社跡の碑」 解説のページへ
桜神社跡の碑
     昔、この石碑から東へ一八〇坪の境内を有する
   桜神社があり、桜一色村の産土神(うぶすながみ)であった。正
   殿に須佐之男命(素戔嗚尊(すさのおのみこと))を、別殿に木花之(このはなの)
   開耶姫(さくやひめ)(木花佐久夜毘売命)が祀られていた。
   永録年間、兵火によって焼失したが、その後再
   建して桜宮または天王社と称した。
     此処の字名(あざめい)を武佐(ぶさ)というのは祭神の須佐が転
   じたものであり、農業・開拓の守護神、素戔嗚
   尊の名は桜一色村の開墾地、天王平(桜中学北)
   にもある。また桜中学南方をかんたんひら神田平と呼ぶのは
   貢献の供物を栽培した地である。
     碑文を書いた山田直行は桑名藩士に生まれ、
   津に移住して私塾を開き多くの子弟を教えた。
     閉舎後は諸体の詩を一万余首作り、明治二十
   九年(一八九六)八十八才で没した。
     碑文は明治二年桜神社に参詣の時のもので、
   土地の人々が昔から神社を崇(あが)め、樹木を大切に
   してきたこと、西に続く桜岡(地蔵堂付近)の
   美しさと歴史等を賛美している。桜神社も明治
   末期に椿岸神社に合祀された。

              桜地区地域社会づくり推進委員会
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 「桜の史跡NO.10 瑞光の石碑」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.11 三十三間筒」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.12 引石」 解説のページへ


 「桜の史跡NO.13番外 椿岸神社」 解説のページへ
 椿岸神社(延喜式内社)
      祭 神      天 之 宇 受 女 命
                 猿 田 彦 大 神
                 天 照 大 御 神

当社は、もと 椿尾と称する奥地に在り、古くから
里俗の尊信を集めていたが、享禄二年(一五二九年
)兵火に罹って灰塵に帰した。時、恰も戦国乱離の
様相日増しに濃く周辺の寺社や貴紳の別業にして戦
火に遭うもの幾多、以て当地近隣にまで動乱の余波
が及んでいたことを知る、これにより三十余年を経
る永禄三年(一五六〇年)奥七郷の氏子、新しく天
照大神、八幡大神を勧請して、智積町御所垣内の地に
これが再建を完了し、それにより里人の崇敬いよいよ
深し。言ふところの七郷とは智積を首邑とする佐倉
、桜一色、森、赤水、海老原、平尾を指し一御厨
を成していた、爾来 世移り人改すること幾星霜
明治四十三年一村一社の方針に基づき、旧桜村内の
神社を総てここに合祀した。

     昭 和 五 十 六 年 一 月 建 立
                宮   司         山  本  行  隆
                昭和五十五年度 氏 子 総 代一同
                氏       原        参       午
                昭和五十六年度四十二才厄年一同
 【註】上掲は、神社側が石碑に刻んだ碑文である。(他と異なる)


 「桜の史跡NO.13 加賀姫と椿岸稲荷神社」 解説のページへ




 「桜の史跡NO.14 延福寺」 解説のページへ


 「桜の史跡NO.15 智積御厨と多宝山智積寺」 解説のページへ
智積御厨(ちしゃくみくりや)と多宝山智積寺
平安中期(凡そ西暦九五〇年以降)北伊勢にも神宮
領が広がるが、折から天災や疫病や争いが続き、世
の乱れに乗じて、禰宜(ねぎ)たちや京の大貴族が神宮領を
私有化。税のみを神宮に納めて御厨(みくりや)と称した。
現桜地区周辺(菰野、神森、上下海老原)にも、
一一六五年頃 西園(さいおん)寺家(じけ)の御厨(みくりや)が成立。 (内宮領)
       面積・一八〇町歩。   (県下有数)
一二〇〇年    御厨(みくりや)の中心となる寺として、当地に
「多宝山智積(ちしゃく)寺」創建。本尊薬師如来。
七堂伽藍完備。(桜南公民館西隣り)
これにより、西園寺家御厨は「智積(ちしゃく)の御(み)厨(くりや)」と呼ば
れるようになる。(智積とは法華経に出てくる大通(だいつう)
智(ち)勝仏(しょうぶつ)の十六王子の長男の名前。末子の名が釈迦(しゃか))
一三二八年 智積(ちしゃく)御厨(みくりや)の持主は、中御門(なかみかど)家(松木(まつのき)家)
      に代り、後年、戦乱を避け当地に住む。
一五八三年 領主織田信(のぶ)雄(かつ)の施政にて智積御厨消滅。
一五八七年 松木(まつのき)家は、寺と老境の姫を残して帰京。
江戸時代に入り、多宝山智積寺は、免田(めんでん)一反で辛う
じて存続するが、明治九年(一八七六)伊勢暴動にて焼失。
本尊の薬師如来坐像は村人に救出されて現存する。
半丈六で江戸初期の作であるが、平安の様式を継ぐ。
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 「桜の史跡NO.16 桜観音堂」 解説のページへ

 「桜の史跡NO.17 智積廃寺跡」 解説のページへ
智積(ちしゃく)廃寺跡 四日市市最古の寺院遺跡
いつの頃からかこの前に「高塚さん」と呼ばれる、高さ約
2m、径約5mの盛り土があり、上には雑木や笹が茂り、
人が近づくとタタリがあるといわれ、誰も近づかなかった。
1953年、ここに農道をつける時、勇気ある者が先頭
に立ち塚を壊すと、甎仏(せんぶつ)片(仏像を型出ししたタイル)や
何種類もの飛鳥~奈良時代の軒(のき)丸(まる)瓦、軒(のき)平(ひら)瓦、平(ひら)瓦が出土
し、近くに歴史上重要な遺跡があると知られ、1967年
周辺の耕地整備計画に伴い発掘調査が行われた。
智積廃寺の寺域は、この東(右手後方)50m付近を中
  心に、南北140m、巾約60mの範囲で、南から金堂、
  講堂、僧房が、真南北一直線に並ぶ最古形式の四天王寺式
  伽藍(がらん)配置が確認された。寺の存続期間は、飛鳥時代から奈
  良時代にかけての約百年間と推定されている。
   この寺は、古代この地域を支配した豪族の氏寺(うじでら)(祖先を
  供養する寺)で、高塚から出た軒丸瓦の六割以上を占める
  「複弁八(ふくべんはち)弁(べん)蓮華(れんげ)文(もん)」は、古代最大の大乱、西暦672年の
  「壬申(じんしん)の乱」で勲功のあった者に対し、天武天皇から下賜(かし)
  されたものとする学説が有力である。
  又、平瓦には、納入先を示す「刑部(おさかべ)郷」の墨書があり、そ
  れは神前(かんざき)の北浦古窯(こよう)址(し)で焼かれた事が判明している。
  智積―北浦―刑部(おさかべ)(現坂部)間は、元地形では山間の低地
  が開らけ、壬申(じんしん)の乱はこの地を通ったとする説がある。
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 「桜の史跡NO.18 雨池用水と大師堂」 解説のページへ
雨池用水と大師堂
江戸時代末、米不足対策の幕府方針により、智積で
も一八一八年に一生吹山麓(さんろく)の田地化が行われた。
山頂の北西高地にあった窪地(くぼち)に雨水を溜め(雨池)
まず西側斜面を灌漑。
又山地の東側へは、雨池より水路を掘り下(くだ)り、こ
の背後の高みを左方(東向き)に 約70m のマンボ
を掘ってこちら側に通し、標高差を利用して導水、
山の輪郭沿いに曲折しながら山を巡り、現メダカの
学校(字(あざ)初瀬)を経て、南東(字(あざ)大谷方面)に進み、
道中東方の田圃(高角境)を灌漑した。
 残る北側、この前方一帯の字(あざ)円上(えんじょう)田(でん)へは、西斜面
の下からこの右手を流れ下る茶々川を利用すると共
に、ここに掘抜(ほりぬき)井戸を掘って給水した。
 灌漑水は地中に浸(し)み、地形上最も地下水の集まる
この場所からは、豊富な清水がこんこんと湧き出し、
人々の憩いの場ともなった。
 この水が永遠に絶えん事を祈って、昭和の初め頃、
篤志の人が、水に縁の深い弘法大師をここに祀(まつ)り、
今も受け継がれている。
 治水の完備した現在、池は不要となり、水路は埋(う)
もれ井戸も涸(か)れ、祠(ほこら)だけが昔を語る。
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 「桜の史跡NO.19 鵯岡白滝不動」 解説のページへ


 「桜の史跡NO.20 一生吹山の歴史」 解説のページへ
一生吹山の歴史
      佐倉城主小林重則は、天文八年(一五三九)この
   一生吹山に砦(とりで)を築き、来攻した鈴鹿郡峯城主峯
   盛定と対戦したが、利あらず矢合川北岸で自刃(じじん)
   した。時に重則十八歳、自刃して果てた地を後
   に殿原(とのはら)と呼び、旧名生水(しょうず)川(今井川)を矢合川と改
   めて激戦の様子を偲(しの)ぶよすがとした。
     一生吹山は出城(でじろ)山とも呼ばれ、毎年七月一日
   に「デジロ祭」があり、若き城主の痛恨を慰霊する
   行事は近世まで催されていた。また、ここには
   木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が祀られ、安
   産の神として信仰されていたが、明治四四年椿
   岸神社に合祀(ごうし)された。
     その後、村の有志の人々により信貴山の毘沙(びしゃ)
   門天(もんてん)を勧請(かんじょう)し、お祀りして現在に至る。毎年四
   月三日の例祭には植木市などで賑(にぎ)わうが、明治
・大正の頃は松茸狩りが盛んで、「十月中旬頃は
  全山松茸狩りに満ち歓呼の声絃歌(げんか)の響きで賑わ
  う」と、当時の四日市鉄道(近鉄湯の山線)の沿線
  案内は宣伝している。

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