時 代 |
年 代 |
出 来 事 |
鎌倉
|
1262〜75年
(文永年間) |
「智積御厨」を構成する郷として、小林郷、瓜生(うりゅう)郷、森郷、上衣比原(かみえびはら)、下衣比原(しもえびはら)、庭田(にわた)郷の六郷があった。(出典・『藤原公之譲状案』)
(詳細は、「智積御厨と多宝山智積寺」のページの「(1)智積御厨の成立と経過」へ)
|
南北朝
|
1369年 |
小林丹後守重利、伊勢国司北畠顕能氏の指図で字御所新田に築城。(出典・『伊勢国司記略』)(詳細は「地蔵堂」のページの「北畠氏と北伊勢との関わり」へ)
小林丹後守重利が城を築いた所・・・「御所新田の位置(絵図)」
|
室町
|
1458年
(長禄2年) |
小林氏一族から、「中村郷」の下司(げし)を務める名主と、「小林薬師」を護持する者が現れる。(出典・『長禄2年 伊勢国智積御厨年貢帳』)
(詳細は、「一生吹山の歴史」のページの「3.佐倉城主小林氏の出自」)へ |
戦国
|
1529年
(享禄2年) |
「延福寺」は兵火の為灰燼となる。
同年、椿尾に在った「椿岸神社」も兵火の為焼失した。
(詳細は、「椿岸神社」のページの「戦国・安土桃山時代当地方の出来事」へリンク) |
1539年
(天文8年) |
1539年7月3日、佐倉城主豊前守小林重則、亀山関一族の鈴鹿郡峯城主峯盛貞に敗北して自害した。(詳細は、「一生吹山の歴史」の「5.1539年(天文8年)の戦い」へ) |
安土桃山
|
1580年
(天正8年) |
佐倉城の小林家ゆかりの者で、当郷世話役の小林三郎太夫頼勝の末子・小林秀牧、剃髪して牛庵は「字宮後」の地にて「薬師如来坐像」の仏頭を発掘。(1529年、兵火による灰燼から50年経過していた!)
仏師に命じて胴体を補い、「小林山延福寺」建立。 |
江戸
|
1854年
(嘉永7年)
|
安政伊賀地震で「小林山延福寺」の本堂倒壊。仏像破損。再度、本尊を補修した後「堂宇」を再建した。
【当地の地震の被害状況】
智積村・・・「西勝寺」と「延福寺」の本堂倒壊。その他不明。
櫻一色村・・・「安正寺」の本堂と表門倒壊。死者3人。
櫻村・・・家屋全壊24戸。
|
近代
|
1873年
(明治6) |
「小林山延福寺」は、無本寺たるを以て廃寺となる。
|
1874年
(明治7年) |
「多宝山智積時」は時勢にて廃寺となる。
「荘岡山全福寺」は時勢にて廃寺となるも、以後「地蔵堂」として維持される。 |
1876年末
(明治10年末)〜
1881年
(明治14年) |
1876年12月21日、「多宝山智積寺」は「人民共立仮小学校」として使用されていたが「伊勢暴動」で焼失した。
この直後から、1881年(明治14年)に「武佐学校」建立完了まで3年余の期間、「小林山延福寺」は「人民共立仮小学校」として使用された。 |
1912年
(明治45年) |
篤信者によって、現・智積公会所の地に「小林山延福寺の堂宇」が移築された。
堂宇は「薬師堂兼智積公会所」として、臨済宗の尼僧によって「釈迦如来坐像等の仏像」その他が護持され、同時に「智積公会所」としても利用された。 |
1943年
(昭和18年) |
最後の尼僧が病気になり、「薬師堂兼智積公会所」としての機能停止。
以後、本尊薬師如来坐像、阿弥陀如来、釈迦誕生仏、釈迦涅槃図一幅、鰐口は「西勝寺」にて「客仏」等として護持されています。
なお、同所は引き続き「智積公会所」として利用されています。 |
1996年
(平成8年) |
「薬師講」が結成され、「薬師如来坐像」に金箔が施されました。 |