「桜の史跡NO.15」 ちしゃくみくりや と たほうざんちしゃくじ |
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三重県四日市市桜町南区に建っていた「多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)」は、1876年(明治9)12月21日の午後5時前、伊勢暴動で焼き討ちに遭いました。 (「伊勢暴動」の解説へ) この時、地元民の必死の努力で、無事搬出された薬師如来坐像、十二神将、閻魔像は、現在下記の様に桜町南区公民館に安置されています。 |
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薬師如来坐像の全高(光輪と台座を含む) 約210cm、像高:約150cm |
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多宝山智積寺が建っていた所
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1.多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)の由来 | ||||||||||
(1)「多宝山智積寺の半鐘の銘文」から由来をみる(参考文献:『伊勢の智積郷 』山田教雄著) 1982年(昭和57)、多宝山智積寺の半鐘が、愛知県あま市森山道上55の慶雲寺に現存することが確認され、その半鐘の銘文には、多宝山智積寺の由来が刻字されていることが明らかになりました。
上掲の“半鐘の銘文”を箇条書きして、西暦年や註書き等を適宜挿入しました。
(2)『明治十七年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』から由来をみる (下記に、地誌本文を箇条書きして、西暦年や註書き等を適宜挿入しました)
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2.智積御厨(ちしゃくみくりや)について | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)智積御厨の成立と経過 (主な参考文献『四日市市第7、16巻』) 御厨(みくりや)とは
(参考文献:「荒木田章氏等申状」、「藤原公行譲状案」、「あくり御前消息案」『四日市市史第7巻』)
(2)智積御厨内の多宝山智積寺の役割
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3.源頼家(みなもとのよりいえ)寄進の鐘について | ||||||||||
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4.伊勢暴動(いせぼうどう) |
明治政府は国家財政の基盤を固めるため、1873年(明治6)地租改正条例を公布しました。 (地租とは、土地にかかる税金のことです) 【地租改正の内容】
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付録・簡単な仏教用語解説 | ||||||||||||||||||||||
七堂伽藍(しちどうがらん) 「七堂伽藍」とは、寺の主要な七つの建物。もともとインドの精舎でお寺は本堂だけでしたが、仏教が伝播した先々の国の文化と混じり合い、本堂以外の建物が必要に応じて建てられました。 *一般には、「七堂伽藍」は以下を指します。
このページトップの写真では分かりにくいですが、向かって左最前列、黒い台座に座しています。 如来像の身体名称など
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(文責:永瀧 洋子) |
参考資料:『伊勢の智積郷 様相と史料』(山田教雄著)、『勢陽五鈴遺響』(安岡親毅著 三重県郷土資料刊行会 )、『四日市市史第7、16、18巻』、『多宝山智積寺薬師如来縁起』(1862年(文久2)佐野貞光著)、『多宝山智積寺由来』(1996年(平成8)佐野師光著)、『御霊さん百年のあしあと』(佐野師光著))、『泗水11 地名に偲ぶ中世の佐倉(桜)』(小関俊郎著)、『三重県警察史第三巻』(三重県警察本部)、『菰野町史上巻』(三重郡菰野町)、『こものの文化財』(菰野町教育委員会)、『詳説日本史』(山川出版社) |