962年
(応和2) |
伊勢国三重郡、神郡となる。(村上天皇が三重郡を伊勢神宮に寄進) |
1160〜67年
(永暦元〜仁安2) |
智積御厨成立。(『荒木田章氏等申状』)
伊勢神宮内宮を本所とし、領家(御厨の所有者)は西園寺(さいおんじ)家と考えられている。 |
1200年
(正治2) |
正治年間(1199〜1200)、多宝山智積寺創建。本尊・薬師如来坐像。
正治2年、将軍源頼家が鐘を寄進。(『桜村地誌』では、この鐘は明治9年の伊勢暴動で焼失したとされる) |
文永年間
(1264〜75年) |
この頃、智積御厨の領域は「瓜生(うりゅう)郷」(現・菰野町神森西、江戸期の神田村)、「森郷」(現・菰野町神森東、江戸期の森村)、「小林郷」(現・智積町)、「庭田郷」(現・平尾町)、「衣比原(えびはら)上・下二郷」(現・上・下海老原町)に広がり、所有権(領家職)は西園寺家が相伝した。(『藤原公行譲状案』) |
1328年
(嘉暦3) |
智積御厨の領家は、西園寺家から中御門家(なかみかどけ。後の松木家)に移る。 |
1389年
(康応元年) |
大日寺(四日市市寺方町)、智積御厨の代官となる。
(この頃、荘園領主が現地の有力者と契約して、一定額の年貢を払う替わりに、荘園の実質支配権を委譲するようになる。そうした荘園を請所(うけしょ)、契約相手を代官と称した) |
永享年間
(1429〜41) |
多宝山智積寺、兵火による堂宇焼失のため草庵を建て什器類を安置する。 |
1430年
(永享2) |
菰野町大字神森の賀保寺の鰐口が作られる。賀保寺の周辺地「森郷」が智積御厨の内に属していたことを伝える貴重な菰野町の有形文化財。 |
1456年頃
(康正2) |
この頃、中御門家の所有権は智積御厨の三分の一となり、あとの三分の二は嵯峨大慈庵(相国寺塔頭慶雲院の末寺)に移っていた。
(その原因は、半済(はんぜい。室町幕府が軍費調達のために荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めた制度)に因るものか、あるいは中御門家が大慈庵に売却または寄進したのか不明) |
1458年
(長禄2) |
『伊勢国智積御厨年貢帳』に、近世の智積村と推定される一区画のほかに、「中村郷」、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」の郷名がみられる。 |
1486年
(文明18) |
松木家、峯弾正忠が去年に続き今年も押領すると室町幕府に訴える。
(15世紀中葉、鈴鹿郡関氏の一族峯氏が智積御厨の代官を務めた時期もあるが、この頃はその地位を失っていたらしい。峯氏の不法は天文8年(1539)佐倉城襲撃として再現する)
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これ以前にも、武士の押領、代官の大日寺(四日市市寺方町)や公文(くもん。荘内の田畠を調査し年貢帳など文書作成する者)竹腰氏の非法、大慈庵との訴訟等が度々起こっていた。 |
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こうした智積御厨の領主間の訴訟や武士の侵略に加え、戦乱による京の治安悪化や生活困窮も重なって、松木家の当主は智積に移住して(1499年)、御厨を直接支配(直務支配(じきむしはい))するようになる。 |
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1499年
(明応8) |
11月、松木家三代目当主・宗綱は、京の戦乱を避けて、子・宗籐らを伴い智積に移り住む。
(『嚴助往年記』に、「明応八己未十一月、里女房衆、予兄弟以下悉伊勢下國始也」と記す。注:厳助は宗藤の弟、醍醐寺理性院僧侶 )
以後、宗綱、宗籐、宗房の三代にわたって80余年あまり智積に在住するが、度々京と当地を往来している。 |
1530年
(享禄3) |
「正月九日、伊勢智積寺本所、依夜盗之儀、炎上云々」(『嚴助往年記』)
智積御厨を管理運営する役所(多宝山智積寺)が夜盗によって炎上。 |
1583年
(天正11) |
当地は、織田信雄の所領となる。
荘園制の崩壊。智積御厨の消滅。 |
1587年
(天正15) |
当主・松木宗房、残務整理を終えて上洛。 |
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江戸期に入り、多宝山智積寺は境内の他田一反歩免税の恩典を受ける。 |
寛文年間
(1661〜71) |
僧宗信、仏殿を修造して、半鐘を懸け日に二回これを敲いて時を告げた。 |
1677年
(延宝5) |
多宝山智積寺中興の祖・宗信の願により御堂建立。
半鐘を鋳造して一日二回撞いて住民に時を知らせた。時の庄屋は坂井三郎左衛門。 |
1729年
(享保14) |
多宝山智積寺の半鐘を新替え。
(この半鐘は現在愛知県海部郡美和町森山の慶雲寺に現存する) |
1751年
(寛延4) |
佐倉村民の願により御堂瓦屋根建立。時の庄屋は伊藤儀左衛門。 |
1777年
(安永6年) |
多宝山智積寺最後の住職信来、「釈迦涅槃像の掛軸」寄進。(現存) |
天明年間
(1781
〜88年) |
多宝山智積寺無住のため、浄土宗鎮西派伊勢中本山の六呂見観音寺(現・四日市市六呂見町)の末寺として存続を許される。
現存の「南無阿弥陀仏の掛軸」(増上寺大僧正祐天書)はこの時観音寺より寄贈されたと思われる。(祐天は正徳二年(1712)鎌倉に大仏殿を勧請した高僧) |
1874年
(明治7) |
多宝山智積寺無住のため、政府の方針で廃寺となり、小学校(人民共立仮小学校)の校舎に利用される。(佐倉村、桜一色村、智積村の児童120人を収容) |
1876年
(明治9) |
多宝山智積寺、伊勢暴動の際暴徒の手で建物焼失、山門は残る。
御本尊その他の仏像は地元民の必死の努力で救出されるが、将軍源頼家寄進の鐘を失う。 |