(椿岸神社は”桜の史跡”ではありませんが、
境内社の「史跡NO.13椿岸稲荷神社」に因む掲載です)


椿岸神社外観
(撮影:2000年5月)
幣拝殿竣功奉祝祭  椿岸神社外観
 (撮影:2009年4月5日(日)


(これは、「椿岸神社」が建立した石碑の碑文です )


椿岸神社 
 神社名 椿岸神社(つばききしじんじゃ)
 鎮座地 三重県四日市市智積町684番地 
 祭神
(日本書紀表記)
主祭神:天鈿女命   (あめのうずめのみこと)天宇受賣命(古事記の表記)

配祀神:猿田彦大神  (さるたひこのおおかみ )猿田毘古神(古事記の表記)
    天照大御神  (あまてらすおおみかみ)
合祀神:豊受大神   (とようけのおおかみ)
    天児屋根命  (あまのこやねのみこと)
    蒼稲魂命   
(うかのみたまのみこと)宇迦之御魂神(古事記の表記)
    誉田別尊   
(ほむたわけのみこと) 第15代応神天皇・八幡神として神格化
    木花開耶姫  
(このはなのさくやひめ)
    市杵嶋姫命  
(いちきしまひめのみこと)
    大山祗命   (おおやまつみのみこと)
    八衢比古神  
(やちまたひこのかみ)
    八衢比咩神  
(やちまたひめのかみ)
 創立年

創立年不詳
椿岸神社」は、平安時代927年(延喜5)に完成した『延喜式』の巻九・十の『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載された『延喜式内社』です。従って、千有余年の歴史ある神社です。

 神紋





左三巴紋(ひだりみつどもえもん)
椿岸神社では、八幡大神の一神である誉田別尊をお祀りしているので巴紋を御神紋としています。
また、巴紋は水が渦巻く様子を形にしたもので、火災除けのまじないとされています。

主な祭典


祈年祭:2月14日 
夏祭り:7月14日 
秋季例大祭:10月第2日曜日
新嘗祭:11月23日



明治17年(1884年)当時の「椿岸神社」
明治17(1884)年、地誌編纂当時の「椿岸神社の様相」(出典・『明治十七年調 伊勢國三重郡智積村地誌・同櫻村地誌』)
  1. 椿岸神社
    • 村社格
      延喜式内の社にして、創立年月不詳
  2. 所在地
  3. 域内  
    • 東西18間(33m)、南北28間3尺(51m)、面積413坪(1,364㎡)
  4. 祭神
    • 猿田彦大神、天宇受賣命、天照大神の三座を祭る。
      土俗、大宮と称す。

      【土地の人々が、椿岸神社を”大宮”と呼称する理由】
      1. 平安時代末期、当地の智積御厨は、伊勢神宮内宮の権禰宜の仲介で内宮領として成立した際、当時の慣例で、「天照大神の分霊」が智積御厨の政所(まんどころ。御厨内の勧農・年貢収納などをする所)の近くの神聖な場所に祭祀された。
      2. 一方、「椿岸神社」は往古よりずっと椿尾(現・桜町西区)の地に鎮座したが、
        1529年(享禄2年)、椿岸神社は兵火で灰燼と化した。
        1560年(永禄3年)、椿岸神社は現在地へ遷座された。
      3. 1583年(天正11年)、北伊勢は織田信勝の所領となる。荘園制崩壊。
      4. 1587年(天正15年)、恐らく「智積御厨」の最後の領主・松木宗房は、伊勢神宮内宮権禰宜が「天照大神の御分霊」を「椿岸神社」へ遷座する儀式に出席した後、領内の残務処理を終えて帰京した、と推測されます。
        • 当地の人々は、「智積御厨」の時代から天照大御神は祭祀されており、その後も時代の変遷とともに「椿岸神社」に鎮座ましますことを知って「大宮」と呼び習わした。

  5. 由緒
    • 椿岸神社は、往古、櫻村地内字椿尾に鎮座ありて奥七郷の総社であった。
      しかし、享禄二年巳丑、天仲冬(てんちゅうとう)の頃、兵火の為に灰燼となり、嗟嘆の余り、永禄三年庚申(かのえさる)智積の邑内に起工を企て、新たに椿尾の神社を此処に移し、旧地名を追いて椿岸神社と名づく。 (出典・「永禄四年(1561年)椿岸神社司神主近藤忠胤謹白」『勢陽五鈴遺響3』安岡親毅著)

      1. 往古、椿岸神社は桜村字椿尾に鎮座し奥七郷の総社であった。
        • 奥七郷は、智積佐倉一色赤水(あこず)海老原(えびはら)平尾の七郷を指す。
        • 奥七郷の総社とは、”奥七郷の神々”を祭祀した椿岸神社を指す。
      2. 1529年(享禄2年)11月、椿尾に鎮座した「椿岸神社」は兵火のために灰燼となる。(天仲冬は、陰暦11月を表す)
      3. 1560年(永禄3年)、智積村の現在地に起工して椿尾の神社を此処に移し、旧地の神社名を追って「椿岸神社」とした。
        • 1560年(永禄3年)、現在地に「椿岸神社」を遷移した当時は、「智積御厨」は存続していたので、「椿岸神社」は「天照大神の分霊」とは別に祭祀されたと推測される。
      4. 1583年(天正11年)、北伊勢は織田信勝の所領となり「智積御厨」は消滅した。
      5. 1587年(天正15年)、「祭神」の項の4.で既述の如く、以後「椿岸神社」で「天照大神の分霊」は祭祀される。
  6. 神宝
    • 三岳寺(三嶽寺)鎮守獅子御頭(永正中、三嶽寺住職権僧都覚信作る)之に遷す。
      • 三嶽寺について
        平安時代大同2年(807年)、最澄(伝教大師)によって鈴鹿山脈の国見岳に開基されたと伝わる。
        永禄11年(1568年)、三嶽寺は織田信長の命により滝川一益の軍勢に破却された。
      • 三嶽寺鎮守獅子御頭
        獅子頭の舌の裏面の墨書銘に「冠峯山権大僧都法印 覚信、願主三郎四郎、永正六年己巳卯月廿一日」と記されている。(永正6年は1509年)
        詳細は「椿岸神社の獅子舞」のページの「椿岸神社宝物の獅子頭」をご参照下さい。


      獅子舞
  7. 祭日
    • 正月十八日、六月十日を例とす。
      明治六年改暦に際し、二月十日、九月十日、十一月十六日に改む。


明治の「村合併」と「神社合祀」、そして昭和の「神道指令」
明治時代「村の合併」・・・明治時代に二度実施されました。
  1. 明治初年(1868年)・・・佐倉村、桜一色村、智積村三村でした。
  2. 明治8年(1875年)・・・佐倉村と桜一色村が合併して桜村となり、智積村二村となる。
  3. 参考資料
    「明治16年(1883年)桜村・智積村別、戸籍・人口・貢租・地租表」
    村 名 戸籍(戸) 人口(口) 貢租(年貢)単位・石 賦金(地租)明治14年調べ
    桜 村 353 1,597 252石5斗7升4合 2,514円44銭6厘
    智積村 193 895 448石7斗1升5合 4,418円76銭5厘
      (出典・『明治17年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『同智積村地誌』)

  4. 明治22年(1889年)・・・「明治の大合併」で桜村と智積村が合併して「桜村」一村となりました。
    • 「明治の大合併」
      近代的地方自治制度として「市制町村制」の施行に伴い、行政上の目的(教育、徴税、土木、救済、戸籍の事務処理)に合った規模と、自治体としての町村単位と、江戸時代から引き継がれた自然集落との隔たりをなくすために、町村合併標準提示(明治21年6月13日内務大臣訓示第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。(出典『日本史辞典』岩波書店)
「明治の神社合祀」
 桜地区では、明治40~42年(1907~1909年)にかけて、村内の全ての神社と山の神も椿岸神社に合祀されました。
  1. 「神社合祀」
    明治末期の地方改良運動の一環として、1906年頃から部落神社の整理統合による一町村一社化が勧められた。内務省のねらいは、部落単位を越えた町村の統合を強化することにあったが、地域住民の反対もあり、整理・合祀の程度は府県による違いがあった。(出典・『神社の由来が分かる小事典』三橋健著)
  2. 明治40~42年(1907~1909年)に実施された「一町村一社の神社合祀令」で、当地では「延喜式内社」である「椿岸神社」が「村社」となりました。
    1. 各村の小字(こあざ)では、永年固い地縁で結ばれた人々(地縁的自治結合=自然村落)によって祭祀されてきた”自分たちの神様”が、「椿岸神社」に合祀されてしまい、当時は大層悲しみ落胆したものだと言い伝えられました。(明治・大正生まれの世代が減少するにつれて、忘れ去られつつありますが一応書き留めておきます)
      参考図書:『神社合祀に関する意見』南方熊楠著(神社合祀に伴う郷土桜村の人々の経験談と類似例あり)

    2. 明治22年(1889年)の「町村合併」に際して、全村を統括して大きな役割を担う桜村内には、往古から桜村の人々が熱い崇敬の念で祭祀し続けてきた「桜神社」が、現・南区公会所の地に在りました。
      • 明治42年(1909年)、「桜神社」も他の神社共々「椿岸神社」へ合祀されると決まると、「桜神社」の本殿は「椿岸神社の本殿」へ、拝殿は「安正寺の鐘撞堂(かねつきどう。鐘楼)」へそれぞれ再利用されました。「桜神社の碑」へリンク
  3. この「一町村一社の神社合祀令」に際して、桜村は最も徹底した神社合祀をした村として近郷に知られたそうです。
  4. 椿岸神社に合祀された神社
     須佐社(智積字御所垣内)
     浅間社(智積字一生吹)・・・・・・・・・・「一生吹山の歴史」の「2.一生吹山城と佐倉城の概略」の(3)へ
     桜神社(桜村字南垣内)・・・・・・・・・・・・・「桜神社の碑」へ
     桜神社(桜村字武佐)と同境内社・浅間社・・・・・「桜神社跡の碑」へリンク
     幸田神社(桜村字南垣内)・・・・・・・・・・・・「加賀姫と椿岸稲荷神社」へリンク
     桜岡神社(桜村字山上垣内)と同境内社・稲荷社・・「八幡神社と山の神」へリンク
     稲荷社(桜村字砂子谷)・・・・・・・・・・・・・「金刀比羅宮」の「石灯篭」へリンク
     大谷神社(桜村字大谷)・・・・・・・・・・・・・「弁天様と山の神」へ
     稚瑳良神社(わかさくらじんじゃ。桜村字猪之峡)
     桜地区内各地の「山神」も10体合祀されました・・・「山の神」のページへ
国家神道の廃止の指令
  1. 昭和20年(1945年)12月25日、連合軍最高司令官により発せられた「国家神道の廃止の指令」によって信仰の自由が保障されました。
    GHQ民間情報教育局のハンスが起草した指令は、神道に対する国家の保護・支援を断ち切るため、
    • 神社に対する公的な財政援助の禁止
    • 内務省神祇院の廃止
    • 公の教育機関による神道の公布の禁止・・・などを命じた。
    • 同時に、軍国主義・超国家主義的でない神道は、個人の宗教として他の宗教と同様の保護を与えるとし、神社神道を認めていた。  (出典・『岩波日本史辞典』岩波書店)

  2. 明治末期に椿岸神社へ合祀された各村の「神社」が、戦後、再び地元へ迎えられた神社 
    1. 桜岡神社は、1947年(昭和22年)山上の有志によって「八幡神社」と名を変えて再建されました。
      (「八幡神社跡と山の神」へリンク)
    2. 1928年(昭和3年)、信貴山より毘沙門天が勧請され「一生吹山毘沙門天王社」として祭祀されました。(「一生吹山の歴史」の(3)デジロ祭と神社合祀 と(4)毘沙門天を勧請 へリンク)
      (神社合祀以前の「浅間神社」の祭神・木花佐久耶姫命は、椿岸神社で引き続き祭祀されています)
    3. 幸田神社は、1960年(昭和35年)、昔を懐かしむ人々によって「椿岸稲荷神社」として椿岸神社本殿の東側に再建されました。
      「加賀姫と椿岸稲荷神社」へリンク
    4. 「大谷社と山の神」は、戦後、大谷池からやや離れた低山地に新築遷座されました。
      その後1986年(昭和61年)「大谷社と山の神」は、乾谷公会所の新築に伴い公会所敷地内の西側に再び遷座されました。
      (「弁天様と山の神」のページへリンク)
    5. 各地の「山の神」も、その御神霊が戻ったと人々によって受け止められ、再び素朴な信仰対象として各々祀られています。
      但し、智積の「山の神」二体は引き続き椿岸神社の社殿内に鎮座しています。
      (「桜地区の石造物」の「山の神」のページへリンク
「智積」の名が戻る
  • 1954年(昭和29)、四日市市に合併。三重郡桜村から四日市市桜町四日市市智積町として「町名」登録され、「智積」の名が戻りました。
「再合祀」という選択
  • 令和元年(2019年)6月6日、山上の「八幡神社」は、椿岸神社へ再合祀されました。
    • 【再合祀の理由】
      山上地区の戸数減少と少子高齢化に起因して、神社の維持管理が困難となり、止む無く”再合祀”と決せられました。
      なお、山上の「山の神」は、令和3年(2021)3月、山上公会所敷地内の「教尊法師之碑」の南側に遷座されました。
       (詳細は「八幡神社跡と山の神」のページへ



 【考察】 椿岸神社の歴史 

はるか遠い縄文時代の頃から
人々は
自然界で異彩を放つ巨木や巨石などを
神の降りる”依り代
(よりしろ)”として特別視してきました。

往昔、智積川ノ北二椿尾ト名付ク小山ノ崖岸アリ
此処二祭リテ社宇モアリタル


 【 目    次 】
   1.椿岸神社の初期鎮座地「椿尾(つばきお)」
   2.神社の歴史
      Ⅰ.日本の神、古代の神(自然崇拝)
      Ⅱ.神社の歴史
      Ⅲ.何故、椿岸神社は“椿尾"に鎮座したのか?
      Ⅳ.何故、現在“椿尾“に”椿の樹”が生えていないのか?
   3.神道について
      Ⅰ.神道と仏教、どちらも重んじられた時代
      Ⅱ.平安時代の神道
        1. 延喜式
        2. 延喜式神明帳
        3. 現存最古の『国宝九条家本』
        4.国宝『九条家本』「延喜式神名帳」の「椿岸神社」
      Ⅲ.室町時代、唯一神道(吉田神道・卜部(うらべ)神道)
      Ⅳ.戦国・安土桃山時代、当地方の出来事
      Ⅴ.神社の社格(ランク)について

   別添・・・「桜西区の地図」から歴史を読む
 

1.椿岸神社の初期鎮座地「椿尾(つばきお)
“椿尾”の位置
「旧椿岸神社」は、現椿岸神社の位置から西方へ直線距離で約4km離れた矢合川の上流「ししこば」付近の山中と推定されます。(「四日市公開型GIS」の距離測定使用)

  • 下記は、桜郷土史研究会の先輩が、1985年(昭和60年)に作成した「ふるさとマップ」の一部です。
    赤色矢印は、伝承された「獅子こ場」の位置を指します。
     次項の「A.椿岸神社の初期鎮座地「椿尾」と「獅子こ場」の関係」をご参照下さい。

    黄色矢印は、「おんばのふところ」と愛称された場所を指します。
    • 「おんばのふところ(乳母の懐)は、さながら北風の防御壁のように切り立った断崖で、古来より昭和の高度成長期の末期(昭和48年(1973年)頃まで、「子供たちが北風が吹く寒い冬の日に”ひなたぼっこ(日向ぼっこ)や ”おしくらまんじゅう”をして遊んだ場所」で、子供たちに愛され、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所でした。
    • 「おんばのふところ」
      現在値:標高49m前後、その背後は標高53.6m位)の段丘崖(だんきゅうがい)
    「ふるさとマップ」(桜郷土史研究会 1985年(昭和60)作成)


往古から1529年迄の“椿岸神社”の位置
  1. 『勢陽五鈴遺響3』安岡親毅著(江戸時代1833年(天保4年)完成。伊勢国の地誌))に記された「椿岸神社」の描写・・・「往昔智積川ノ北ニ椿尾ト名ク小山ノ崖岸アリ 此處ニ祭リテ社宇モアリタル」について
    • 小山ノ崖岸について
      往昔、智積川の北に椿尾という小山の崖岸があった。
      ここの「崖岸」は、上掲の「おんばのふところ」の崖よりも”小さな崖”と推定され、崖の周辺は椿の樹などの常緑樹が茂る美しい小山であったと想像されます。
      しかし、この「小山の崖岸」は、永年に亘る智積川の浸食や地震等で崩壊したと考えられます。


  2. 「椿岸神社は、往古、櫻村地内字椿尾に鎮座ありて、奥七郷の総社であった」と『明治17年調伊勢國三重郡智積村地誌』に記されています。
    1. 椿岸神社の初期鎮座地「椿尾」と「ししこば(獅子こ場)」の関係
      1. 1529年(享禄2年)11月、椿尾に鎮座した「椿岸神社」は兵火のために灰燼となりました。
      2. その後、「椿岸神社跡地」の正確な位置は伝承されず、ただ「字椿尾に在った」と伝えるばかりです。
      3. 一方、「ししこば」とは、大正時代まで「椿大神社の御獅子が菰野へ行く途中で、必ずこの場所で四方ざしの舞を舞った場所」という伝承の地で、歴史的見地から大変重要な場所です。
      4. こうした理由から、「旧椿岸神社」は「ししこば」の近くに在り、椿の樹に囲まれた荘厳な境内が推測されます。

    2. 当地は、平安時代末期に伊勢神宮の内宮領として「智積御厨」が成立し、「内宮」を本所とし、京の公家の西園寺家は「領家」として「智積御厨」を実質支配しました。以降、西園寺家から中御門家、松木家へと受け継がれる過程で「智積御厨」は大くき発展しました。

    3. 室町時代の頃、各地の荘園や御厨内で、自主的に「郷」を単位とする村落共同体が構成され「郷村」と呼ばれました。
      1. 1458年(長禄2)の『智積御厨年貢帳』に、「智積御厨の中心の郷」を指す郷名は「中村郷(現・智積町)」と記され、その他に「桜郷(現・桜町(江戸期の佐倉村)」、「一色郷(現・桜町(江戸期の櫻一色村」、「森郷(現・菰野町神森(江戸期の森村)」、「平尾郷(現・平尾町)」、「上海老原郷(かみえびはら)(現・上海老町)」、「下海老原郷(しもえびはら)(現・下海老町)」の七郷がありました。
      2. 七郷のうちの主村である「中村郷」「智積郷」と郷名が変わった年代は不明です。
      3. 江戸時代末期の1833年(天保4年)完成した『勢陽五鈴遺響3』安岡親毅著に、智積、佐倉、一色、森、赤水、海老原、平尾の七郷ナリ智積ヲ第一トスと記されています。

    4. 「奥七郷の総社」とは
      「椿岸神社」を維持管理運営するために、
      1. 先ず、「智積郷」を第一とする七つの郷で「奥七郷」が形成された。
      2. 次に、「智積御厨」の「智積郷」以外の各郷村内で祭祀する神社の祭神を其々分祀して、椿尾の「椿岸神社」に祭祀した。
        こうして、「椿岸神社」は「奥七郷の総社」と呼称されるに至ったと推察されます。

    5. 「智積御厨」内に暮らす「奥七郷」の人々は、折に触れ椿尾の「椿岸神社」に集まり、共に神に祈りを捧げ、互いに親睦を強め、地域の諸問題を話し合うなど「固い絆」で結ばれていたと考えられます。

  3. 「智積川」・・・桜地区の歴史上で初見の川名
    椿岸神社社傅ニヨルトキハ、往昔智積川ノ北ニ椿尾ト名ク小山ノ崖岸アリ 此處ニ祭リテ社宇モアリタル二・・・」(出典・『勢陽五鈴遺響3』安岡親毅著)

    1. 現・矢合川は、戦国時代永禄4年(1561年)当時、「智積川」と呼称されていたことが判明
      時代別「矢合川」の名称変遷
      時  代 地  域 川  名
       ~ 戦国時代
         1561(永禄4)年頃
      全  域 智積川(ちしゃくがわ)
      江戸初期(1603年)
       ~明治22(1889)年迄
      上流・佐倉村地内 今井川(いまいがわ)
      下流・智積村地内 生水川(しょうずがわ)
      明治22年(1889年) 全  域 矢合川(やごうがわ)

    2. 往昔、智積川の北に椿という小山の崖あり。此処に祀りて社宇もあった
      1. 『往古、年々歳々智積川が「椿尾山」の岸辺を削り「崖岸」が露呈し、その背後には椿の大樹が茂る神々しい山々が連なっていた』と推測されます。
        当地の人々は、その場所がまさに神様が降りられる場所と考え、崖岸の傍に「お社」を祭祀した。
        そして年を経るに従い、その神聖な場所に「社殿」が造られ「椿岸神社」として整ったと考えられます。
      2. 現在(2021年)の標高(出典・地理院地図・電子国土Web)
         ★「獅子こば」の標高・・・・・・約99m
         ★背後の山(最も高い所)・・・・約165m


2.神社の歴史
Ⅰ.日本の神、古代の神(自然崇拝)(主な参考文献:『神社の古代史』岡田精司著)
  1. 古代日本では、あらゆるものに精霊が宿っていると考えられました。

  2. 神は平常は人里に住まない
    遠方の清浄の地、山の奥や海の彼方と考えられていたので、そこから祭りの日だけやって来ます。

  3. 神は目に見えないものであると認識していた
    だから神の形(神像彫刻など)は本来決して作らなかった。
    つまり、偶像崇拝は無かった
     神像は、平安時代に入ってからのものしかない。
     仏像の影響で作り始めたと考えられている。

  4. 神と死者の霊とは区別されていた
    だから死者の霊が神として祭られることは、古くは決してなかったと考えられます。
    天神さん(菅原道真を祀る神社)などの御霊信仰以後、人を神に祀る風習が始まり、それが拡大されるのは近代の国家神道のもとにおいてです。
    • ”神”は、岩、山、風、水、湖、樹木など自然界の全てに宿っていると考えられ、人里から隔たった神聖な場所と思われる所を”御神体”として崇められました。
      その神聖な場所で、人々は豊作を祈り、天候の風水を祈り、集団の健康を祈り、やがて感謝の儀式が生まれたと考えられています。

  5. 「神社」の成立
    1. 一定の祭場と祭祀対象
      • 祭祀場は、生活や生産の場から離れた山麓や水辺の神性で清浄で、日常の生活による穢(けが)れが及ばない村から離れた小高い所などが選ばれた。
         (弥生・古墳時代の祭祀遺跡の多くが、生活・生産の場から離れた山麓や水辺に営まれていることからも推測できます)

    2. 祭りのための常設神殿の成立
      • 古代の神祭りの場所は、祭場の一角に神霊を迎えるための磐座や神籬(ひもろぎ)=神木があっただけの簡素なものであったと思われます。
      • 祭りの日だけ構造物を建てる形に発展し、さらにその社殿が常設化する。
    3. 神職の出現
      • 祀る人・神職の出現。社殿にいつも奉仕する専業の人がいること。
        女性の巫女であれ、男性の神主であれ、神事に専業する人が居なければ社殿を常設する必要はない


  6. 神を迎える行為
    1. 祭りの準備
      神聖な土砂で清める。祭場を清めるために、山の土や海の砂を撒くようなことがあった。
    2. 精進潔斎
      御籠(おこも)りをして不浄に触れぬようにする。
      (みそぎ)、祓(はら)え、水による清めで川に入って身を清める。
    3. 神祭りの時間は、古代では夜でなくてはならなかった
      灯火の普及しない時代には、人の行動する昼間と神の行動する夜間とがはっきり区別されていた。
      だから、神を迎えるのも、もてなすのも、夜の暗闇でなければならなかった。

Ⅱ.神社の歴史
  1. 神社の原初形態は、必ずしも「社殿」を伴うものではなかった
    年数回の祭りのたびに、神聖視されていた場所、村里を見下ろす山の麓、神々しい森などに造られた。
    1. 天津神籬(あまつひもろぎ)・・・神の依代(よりしろ)=神が宿る樹木(榊など常緑樹)
      神籬(ひもろぎ)とは、古代では、神霊が天下る木、神の依り代となる木をいう。
      • 特殊な神木を神籬(ひもろぎ)とした神社の例
        延喜式神名帳の
        • 「椋本神社(むくもとのかみやしろ)」(大和国宇陀郡)
        • 「甘樫座神社(あまかしにいますかみやしろ)」(同高市郡)
        • 「樟本(くすもとの)神社」(河内国志紀郡)

    2. 天津磐境(あまついわさか)・・・石で区画した神聖な場所(自然石で磐座(いわくら))を設ける。
      こうした場所に神霊を迎え、終われば送り返す。
      このような形態であったと考えられています。
      こうして、神様をお迎えしてお祈りを捧げ、終わると粛々と送り返した。


  2. 祭神(さいじん)・・・神社に祭られている神
    1. 神社の成立は、一般的に山、川、海、石などを神体に見立てる自然崇拝から始まったと考えられるため、創祀時においては神名不詳とされる神社が多い。

    2. 『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』でも、祭神名が記されている神社は、伊勢、住吉、宗像などごく限られた神社にすぎない。

    3. ほとんどの神社の祭神は、地名・神社名に神を付した名称で記されている。

    4. 『延喜式』の神名帳においても、大部分が神社名しか付されていないことから、10世紀初頭までは地名・神社名を付した祭神が一般的であったと考えられる。

  3. こうした聖地は、みだりに人の進入を許さぬ禁足地で、注連縄(しめなわ)を張り、常緑樹の榊(さかき)の枝に白い木綿をつけて垂らして禁足地として、人間が足を踏み入れることを禁じ、草木の採集も忌まれた。
    『延喜式』巻三に、「凡そ神社の四至の内に樹木を伐り、及び死人を埋葬することを得ざれ」とあるのは、神性保持のための禁忌の一端を示しています。


Ⅲ.何故、椿岸神社は“椿尾(つばきお)”に鎮座したのか?
  1. 往古、”椿尾(つばきお)”には椿の樹が自生していた

    桜地区郷土史の先学である故・西勝寺僧侶山田教雄師の著書『西勝精舎聞書抄』には以下のように記されています。

    ・・・桜地区の西方の「椿尾は椿林が尽きる所」という意味で名付けられ、その他にも「笹尾は笹薮の果てる所」、「茨尾は茨の道の終わる所」などと尾根につづく土地に親しみ、四季折々の装いを変える山々と共に暮らした人々が愛称した懐(なつ)かしい地名です。・・・

  2. ヤブツバキ(ツバキ) (出典・『改訂増補・牧野新植物図鑑』北隆館)
    • 分布・・・北限は青森と秋田県、それより以南の日本全国に分布。
    • 自然環境・海岸から河川の沿岸に多く分布し適湿の壌土に育つ常緑高木。
    • 形態・・・樹高/15mに達する。幹径/30~50cm。花/2~4月に開花。
    • 繁殖・・・実生による
    • 用途・・・防潮及び防風林とする。
           材は楽器や木槌、薪炭材にも利用する、種子から椿油を採る。

  3. 往古、椿は聖なる木であった

    1. 椿の花は厳寒の季節に開花し、しかも樹木が強靭であることから、魔除け・厄除けの霊木と考えられていました。

    2. 『日本書紀』に、景行天皇が即位12年、九州に親征して熊襲討伐の際、椿(海石榴・つばき)の木で(つち、物をたたく道具)を作り武器とされた記録があります。         
      『日本書紀 巻第七 景行天皇』(第12代景行天皇・・・古墳時代)
       
      • 【景行天皇十二年秋七月、熊襲反之不朝貢】
         (熊襲(くまそ)が背いて朝貢を奉らなかった)
      • 【景行天皇十二年冬十月、・・・則採海石榴樹 作椎為兵】 
        天皇は椿の木で椎(つち、木槌)を作り兵士に武器として授けた)

    3. 正倉院に、神事に使われた椿杖(つばきのつえ)が保存されています。
      • 758年(天平宝字2)正月初卯の日に行われた魑魅悪鬼(ちみあっき)払いの行事に用いられたものです。
      • 宮中では、正月初めの卯の日、年中の邪気を払うため、椿杖で大地を叩く儀式が行われました。
        (椿の細い幹を160cmほどの長さの杖としたもので、その外皮上には数色の顔料で装飾がほどこされている。(卯杖(うづえ)としては他に桃や梅なども用いられたようです)

    4. 『万葉集』に、椿の樹が自生する土地を褒め、土地の精霊の加護を受け、旅の安全を祈る歌があります。
      飛鳥時代大宝元年(701年)秋九月太上天皇(おおきすめらみこと、持統太上天皇と孫の文武天皇が紀伊国に行幸の折、捧げられた一首
      巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を
          (こせやまの つらつらつばき つらつらに みつつしのはな こせのはるのを)
              (万葉集巻1ー54 坂門人足(さかとのひとたり)


      • 意訳:巨勢山の つらつら椿を じっくりと 見ながら偲びましょう 巨勢野の春景を
      • つらつら椿・・茂った葉の間に点々と連なって花をつけている椿の木。
      • に、巨勢山のを偲んで詠んだ歌
      • 巨勢山・・・・奈良県御所市(ごせし)古瀬の辺りの山
           (出典・『萬葉集①』小学館)   


    往昔、智積川の北に椿という小山の崖岸あり。此処に祀りて社宇もありける
    • 往古、椿は聖なる樹であった。
      遥か遠い昔、私たちの先人は智積川の北の椿尾に、厳然として聳え立つ「小山の崖岸」「磐座(いわくら)」とし、間近に群生する「椿の樹」の霊力を信奉して神籬(ひもろぎ) として、「霊地」と崇めたであろう・・・という大きなヒントを上掲の万葉歌は示唆します。

Ⅳ.何故、現在“椿尾”に“椿の樹”が生えていないのか?
  • ここまで見てきたように、私たちの郷土の先人は、智積川の小山の崖岸「磐座(いわくら)」に、椿の大樹「神木」として、「神の山=椿尾の山」に神様を迎えていたことが想像されます。 
    従って当然のことに、「椿尾の山」の樹々の伐採は「神域」であるが故に禁忌とされ、椿尾の山全体が「禁足地」として厳重に保護され続けてきたと考えられます。
    しかし現在、「椿尾」に椿の樹は全く見当たりません。

    【考察】なぜ、現在「椿尾」に椿の樹が生えていないのか?
    1. 戦国時代1529年(享禄2年)冬、字椿尾の「椿岸神社」兵火の為に灰燼と化した。
      この時、恐らく
      森林火災が発生して「椿尾」ばかりでなく、付近の山々に燃え広がり、かつての”椿尾の神々しい山の姿が消滅”したと推察されます。

    2. 「椿岸神社」の焼失から30年余り経過後もなお、かつての「鎮守の森」の面影が戻らない「椿尾の山」の様相に、「七郷の氏子嗟嘆(さたん。嘆くこと)の余り、永禄3年(1560年)、智積の邑内に起工を企て、椿尾の神社を此処に移し、旧名を追いて「椿岸神社」と名づく(『五鈴遺響』及び口碑)と『智積村地誌』は記します。
      • 人々の嘆きは尋常ならず、古代から”椿尾”=”椿の樹が茂る美しく神々しい山”=”神様が降臨する尊い山”への崇敬の念は捨て難かった。
        しかし、兵火に罹って30有余年の歳月が経過した後も、在りし日の”神々しい椿尾の山”の様相は戻らず、七郷の氏子は「此処は生活の中心から遠くて何かと不便だ」と互いに言い聞かせ、止む無く「椿尾」の地から現在地へと「椿岸神社」は遷座されたと推察されます。

    3. 「椿尾」の直ぐ東の「屋敷尾」は、「椿岸神社鎮座の時は神職の邸宅なりと云う」と『櫻村地誌』は伝えています。この辺りも山林火災の類焼を免れなかったと推測されます。

    4. 江戸時代以降、「椿尾」や「屋敷尾」の山々は付近の山々と同様に、人々の暮らしに欠かせない「(たきぎ。家庭用燃料)採草家畜の飼料のための柴刈り山」として利用され、山の樹木は大きく育たなかったと、伝承されています。
    5. 大正時代(1912~1926年)、小林繁太郎村長が村内の山々の大半を「村有林」として、植林・育成に立派な業績を残されました。
      こうして、「椿尾」を含め桜地区西部の山々は針葉樹林となりました。
      (参考ページ「石碑いろいろ」のページの『小林繁太郎村長の彰功碑』へ)



3.神道について
Ⅰ.神道と仏教、どちらも重んじられた時代

 飛鳥時代
  • 6世紀半ば、欽明天皇の時代に仏像と経典が伝来し、その後仏教寺院や仏教美術に関する様々な技術者が来日しました。
    1. 日本最古の仏教寺院
      • 593年(推古天皇元年)、聖徳太子「四天王寺」建立(日本仏法最初の官寺)
      • 606年(推古天皇14年)、蘇我馬子「飛鳥寺」建立

    2. 672年(天武元年)、壬申の乱アマテラスに祈願して勝利した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮に即位して天武天皇となり、神祇政策・律令祭祀の制度化に積極的でした。
      • 天武・持統朝(672~697年)、国史として『古事記』と『日本書紀』の編纂開始
      • 681年、「飛鳥浄御原令」編纂開始。689年、施行。
      • 684年、天武天皇13年、「白鳳地震」発生
        (推定マグニチュード8.4~9.0など諸説あり。記録に残る最古の
        南海トラフ地震と推定される。出典『天災の日本史』監修・磯田道史
        『日本書紀』の記録
        • 天武天皇13年冬10月、壬辰、逮于人定、大地震。舉國、男女叫唱不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋・寺塔神社、破壞之類不可勝數
          (天武天皇13年(684年)10月14日夜10時頃、大地震があった。国中の男女が叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の官舎や百姓(おおみたから)の家屋や倉庫、寺院堂塔や神社の建物が倒壊したものは数知れず)
      • 大嘗祭・式年遷宮は天武天皇によって制度化
        皇后の持統天皇によって開始され、千三百年の長い歴史と伝統が受け継がれた。
      • 701年(大宝元年)「大宝律令」制定。
        刑法の「律」と、行政法や民法の「令」が揃った日本最初の国家基本法の成立。
        天武天皇が律令制定の詔を出し、孫の文武天皇の命で刑部親王・藤原不比等が唐の法律を参考に編修。律・6巻、令・11巻。
        天皇中心の中央集権国家の体制が固まった。
        7世紀後半以降、律令国家の形成に伴い神道(しんとう)儀礼も整備された

    3. 700年前後、当地に「智積廃寺」創建され、その後100年間位存続した。

 奈良時代
  • 記紀の完成中央集権国家の確立を意味しました。(「記紀」とは『古事記』と「日本書紀』の総称)
    1. 奈良時代712年(和銅5年)、『古事記』成立(神代から第33代推古天皇まで)
      奈良時代720年(養老4年)、『日本書紀」成立
      (神代から第41代持統天皇まで)
      • 八世紀の初め、大和朝廷が全国各地の豪族を統一する過程で、各々の豪族が信奉する神々を体系化し、天皇家の祖先神・天照大御神を頂点として八百万の神々を序列化することによって、天皇家が他の豪族から卓越した存在であることを示した。

    2. 同じ時期、天皇家の主導で「仏教の受容」が進む
      奈良時代714年(和銅7年)、聖武天皇、地方ごとに国分寺建立を命じる。

    3. 奈良時代734年(天平6)、「天平河内大和地震」発生
      『続日本紀』に記録が残る。(推定マグニチュード7.0~7.5・・・出典『天災の日本史』監修・磯田道史
      • 奈良時代には、政争、飢饉、疱瘡(天然痘)などが頻発したが、地震の被害は特に大きかった。
        • 『国史大系、第2巻続日本紀』
          天平六年夏四月、戊戌、地大震 壊ル天下百姓ノ廬舎圧死セル者多シ・・・
          (天平6年4月、天下百姓の家屋壊れ圧死する者多し・・・)
          (大阪を南北に走る生駒断層が動いたとみられている)
      • 畿内七道諸国に使いを出して、神社の被害状況を報告させた。
      • 聖武天皇は「地震発生の責任は自分にある」と詔勅を発し、大赦を実施した。(出典・『新日本古典文学体系16続日本紀』岩波書店)
      • しかし、その後も内乱や疫病などが相次ぎ、聖武天皇は更に仏教に救いを求めるようになる。

    4. 奈良時代752年(天平勝宝4年)、東大寺大仏開眼供養会。大仏(廬舎那仏)の力による国家鎮護を目指す。

Ⅱ.平安時代の神道
  • 平安時代、『弘仁格式(こうにんきゃくしき)『貞観格式(じょうがんきゃくしき)『延喜格式』三代格式(律令の補助法令)が編纂・施行されました。
    • 三代とは、嵯峨天皇、清和天皇、醍醐天皇です。
    • は、律令を改訂増補するための追加法令。(三代の格を集めた『類聚三代格』に一部現存)
    • は、律令および格の施行細則。(『延喜式』のみほぼ完全な形で現存します

    • 平安時代初期、887年(仁和3年)、仁和(にんな)地震発生。(『日本三大実録』に記録が残る)
      (南海トラフ地震と考えられている。推定マグニチュード8.0~8.5

  1. 延喜式(えんぎしき)
    『延喜式』は、平安時代延喜5年(905年)に編纂が開始された律令制を運用するため50巻から成る施行細則をまとめた法典です。
    1. 「延喜式」は、醍醐天皇の命によって、延喜5年(905年)編纂開始し、22年後の927年(延長5)藤原忠平ら『延喜式』50巻を撰上(せんじょう。編集して奉った)された。
    2. その後も修訂が加えられ、40年後の967年(康保4年)施行
    3. 「延喜式」は、古代の法令集「弘仁式(こうにんしき)」と「貞観式(じょうがんしき)」と、その後の「式」を補う形で集大成したもので、後の律令制度の基本法となった。

  2. 延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)
    「延喜式神名帳」は、927年(延長5)にまとめられた『延喜式』の「巻九」と「巻十」のことで、「官社」に指定された「全国の神社一覧表」です。

    「延喜式神名帳」に記載された神社を、「延喜式内社」または「式内社」という。
      (「延喜式神名帳」は全国の古代神社史の基礎資料とされる)
    1. 「神名帳」は、古代律令制における”神祇官”が作成した官社の一覧表を指し”官社帳”ともいう。
    2. 延喜式に記載された天神地祇てんしんちぎ)は、総数3,132座、神社2,861社
      天神地祇・・・天神は高天ヶ原に生まれた神、地祇はこの国土の神)
    3. 「式内社」の中には、中世以降に衰退したり、改号したりして行方が分からなくなった神社もある。
    4. 『延喜式』の「巻九」と「巻十」は「神名帳」という。
      古代律令制の神祇官が作成した「官社」の一覧表で、国・郡別に神社名が列挙されている。
    5. 時(平安時代中期)の地方行政区画を知ることが出来る。
    6. 各神社の祭神名由緒などの記載はない
    7. なお、式内社のうちで朝廷が定めた「明神大社」という神社がある。
      これは特に霊験あらたかで崇敬が厚く、由緒も古く正しい神社(祭神)で、その数は310座(225所)ある。
    8. 室町時代以降、唯一神道の興隆で再び「延喜式神名帳」が重視され、収録された神社は「式内社」として尊重されるようになる。(次項「Ⅲ.室町時代 唯一神道(吉田神道・卜部神道)」に記載)
       
  3. 現存最古の国宝「九条家本」「古写本」・・・摂関家・九条家に伝来
       九條家本
    は摂関家であった九条家に伝来した古写本で、途中に欠巻はあるが、
       まとまった古写本としては現存最古本である。
    【九条家本『延喜式』の紙背文書(しはいもんじょ)について】
    1. 一度使われた紙の裏を利用して文字が書かれた。
      (当時、紙は貴重だったので”紙のリサイクル”)
    2. 平安時代11世紀、康保3年(966年)~承保元年(1074年)
      平安時代後期、政治・文化の中心にいた摂関家の九条家が、関係機関を通して使用済みの紙を集め、文字の上手な人々に書き写させたと考えられている。
    3. 紙本墨書 28.1×1658cm 
    4. 途中に欠巻はあるが、神祇式から内膳司式に至る二十七巻を存する。
    5. 本文の体裁は同一でなく、筆跡も分かれるが、同時代の成立と認められる。
    6. ほぼ全巻にわたって加えられた朱墨の仮名は、平安・鎌倉時代の読法を伝えて国語学上にも貴重である。
    7. 紙背文書(しはいもんじょ)であるため、少し見にくいのが難点。しかしここに使用された紙背の文書は、平安時代の史料として学術的価値が高く、名家筆跡も含まれている。

  4. 国宝『九条家本』「延喜式神名帳」に記載された「椿岸神社」
    現存最古の国宝『九條家本』に、
    • 「三重郡六座並小の一座として「椿岸神社」の記載があり、 同様に「鈴鹿郡十九座並小の一座として「椿大神社」が記載があります。この時点では、両神社の社格は同一の「並小」です。
    • 下記に、国宝『九条家本』「延喜式神名帳」に記された「椿岸神社」と「椿大神社」を並列表記します。
      (両神社は「獅子舞」を通して往古より深い繋がりがあり、現今も3年に一度、椿大神社の獅子舞は、桜地区内9か所で「椿宮獅子神門御祈祷」と、「椿岸神社」の境内で「椿宮獅子神御祈祷神事」が斎行され、桜地区住民に深い感銘を与えてくれます。こうした友好が末永く続くようにと願いを込めて)

    『延喜式』の現存最古の古写本・国宝「九條家本」に記載された「椿岸神社」と「椿大神社」   (出典・「e国宝  国立博物館所蔵」指定名称:延喜式(九條家本)
    国宝『延喜式九條家本』
    『延喜式巻第九 神祇九 三重郡六座 並小


    深田神社、加富神社、
    神前神社、小許曽(オコソ)神社、
    足見田神社、椿岸神社 
    国宝『延喜式九條家本』
    『延喜式巻第九 神祇九 鈴鹿郡十九座 並小


    那久志里神社、倭文神社、川俣神社、真木尾神社、
    志婆加支神社、縣主神社、天一鍬田神社、椿大神社、小岸大神社、大井神社二座、三宅神社、江神社、布気神社、石神社、長瀬神社、忍山神社、行山神社、弥牟居神社


    (便宜上、「椿岸神社」に赤丸印を添付)


    (便宜上、「椿大神社」に赤丸印を添付)

Ⅲ.室町時代、唯一神道(吉田神道・卜部(うらべ)神道
  • 室町時代、京都の卜部神道の興隆と結びついて、『延喜式神明式』に対する研究が起こった。
    吉田(卜部)兼倶(かねとも)文亀3年(1503年)に著した『延喜式神名帳頭註』はその代表的なもの。
     吉田神道について
    • 室町時代後期に吉田神道(唯一神道)の創始者・吉田兼俱によって唱えられた神道。
      吉田兼倶の本姓は卜部(うらべ)氏。京都吉田神社の神主。
      その教説は、兼倶の「唯一神道名法要集」に要約されており、儒・仏・道の三教に対する神道の純粋性を主張するが、実際は、室町時代のさまざまな教えを習合したもの。
      1484年(文明16)、兼倶が大元宮という特異な神殿を立て、諸国の神社への宣伝を努めたことで、近世に入ると、吉田神道は全国の神宮のほとんどを傘下に収めるようになった。
        (出典・『日本史辞典』岩波書店)
  1. 作成年:戦国時代1532~33年(天文元~2年)

  2. 平安時代927年に作成された『延喜式』の巻九・十の神祇に「祭神名」の記載はないが、卜部(吉田)兼永本には、稀(まれ)に祭神名が記載されている神社がある。

  3. 三重郡の「椿岸神社」と、鈴鹿郡の「椿大神社」には「祭神名」が記入されている。
    • 「椿岸神社」に、天鈿女命也 兼永本
    • 鈴鹿郡の「椿大神社」に、猿田彦神也 兼永本

    『延喜式神名帳』卜部(吉田)兼永本『延喜式巻第九 神祇九
    (出典・『延喜式巻第九』)「延喜式」政宗敦夫・編、日本古典全集刊行会、昭和4)
                      
    「三重郡六座 並小」
     江田(エタノ、深田)神社
     加冨(カフノ)神社
     神前(カムサキノ)神社
     小許曽(オコソ)神社
     
    足見田(アシミタ)神社
    椿岸(ツハキキシノ)神社
      天鈿女命也 兼永本

    「鈴鹿郡十九座 並小」
     那久志里神社、倭文神社、川俣神社、真木尾神社、
     志婆加支神社、縣主神社、天一鍬田神社、
    椿(ツハキ)大神社
      猿田彦神也 兼永本
     小岸大神社、大井神社二座、三宅神社、江神社、
     布気神社、石神社、長瀬神社、忍山神社、行山神社、
     弥牟居神社 
    「卜部(吉田)兼永本」の特徴
    三重郡内では、「椿岸神社」だけに”祭神名”と”兼永本”と付記がある。

    椿岸神社(ツハキキシノ)
     天鈿女命也 兼永本
           
    「卜部(吉田)兼永本」の特徴
    鈴鹿郡内では、「椿大神社」だけに”祭神名”と”兼永本”と付記がある。

    椿大神社(ツハキ)
      猿田彦神也 兼永本


    (便宜上、三重郡六座の「椿岸神社」に赤丸印添付)


    (便宜上、鈴鹿郡十九座の「椿大神社」に
    赤丸印添付)

Ⅳ.戦国・安土桃山時代、当地方の出来事
  1. 1529年~1586年の期間に、「椿岸神社」と「椿大神社」で発生した出来事




    1529年
    (享禄2冬)
    延喜式内椿岸神社は、往古桜村地内字椿尾に鎮座ありて奥七郷の総社なるに、享禄2年冬、兵火の為に灰燼となる。
    同年、「小林薬師(後の「少林山延福寺」)」も焼失した。
    1560年
    (永禄3)
    七郷の氏子悲嘆の余り、智積の邑内に起工を企て、新たに椿尾の神社を此処(現在地)に移し、旧地名を追いて「椿岸神社」と名づく。





     
    1574年
    (天正2)
    1574年、織田信長に仕える滝川一益は、伊勢長嶋の一向一揆の平定後、長島城主となった。
    1583年
    (天正11)
    1583年、反秀吉派の滝川一益は、秀吉方の「峯城」を守る岡本良勝、及び「関城」や「伊勢亀山城」を守る関盛信を破った。
    この戦乱で「椿大神社」は戦禍を被り、社殿・古記録焼失
    1586年
    (天正14)
    「椿大神社」復興

  2. 天正13年11月29日(1585年11月29日)、天正地震発生
    天正地震は、中部地方から近畿地方にかけて発生。推定マグニチュード8近い超大型の内陸地震。 
    • 天正13年7月に「関白辞令の宣旨」を受けたばかりの木下秀吉は、近江坂本城にいたが、この地震に見舞われ馬を乗り継ぎ必死で大阪城へ逃走した。
    • 若狭湾や伊勢湾で大きな津波が発生。
    • 琵琶湖の水辺に築かれた長浜城は、地盤沈下のため城下町ごと崩壊した。
    • 織田信勝の居城「伊勢長島城(三重県)」も「天守が崩れる」など多大な被害が生じた。(「養老・桑名・四日市断層帯」)

Ⅴ.神社の社格(ランク)について
  1. 平安時代の律令制度下で、「延喜式神名帳」に記載された神社を「延喜式内社」または単に「式内社」といい、一種の社格となっています。
    1. 「延喜式内社」は全国で2861社あり、朝廷から「官社」として認められた神社)
    2. 「式内社」と認められた神社は「由緒ある神社」とされ、毎年の祈年祭には、幣帛(へいはく。布・衣服・武具・神酒など)を奉(たてまつ)られた(お供えされた)
    3. 「神明帳」には、当時の国・郡別に神社名と祭祀の「格付け」が記載されている。
      全国3132座(祀られる神の数であり、神社数ではない)。
      「神社数」2861社が格付けされた。
    4. 式内社は全て、陰暦2月の祈年祭において幣帛(へいはく。神への供物)を受ける。
    • 宮中で神祇官(国家)から幣帛を受ける神社・「官幣社」737座
      • 大社と記載され弊(みてぐら)を案上(あんじょう。机の上)に奉る神・・・304座
      • 大社と記載され弊(みてぐら)を案上(あんじょう。机の上)に奉らざる神・433座
    • 神社の鎮座する国の国司から幣帛を受ける神社・「国幣社」2395座
      • そのうち大社と記載される神社・・188座 
        国司が国幣社にお供えする品々・・・糸(生糸)3両、綿(真綿)3両(両は重さの単位)
      • 上記以外の小社と記載された神社・2207座
        国司が国幣社にお供えする品々・・・糸(生糸)2両、綿(真綿)2両

        ”椿岸神社”は国幣小社なので、国司から帛を受けた

  2. 当時、既に存在していた神社でも、朝廷に認められずに「延喜式神名帳」に記載がない神社は「式外社(しきげしゃ)とされた。
    1. 宮廷の政力範囲外の神社 →「熊野那智大社」など。
    2. 既に神仏習合した神社 → 神仏習合等により仏を祀る寺となった神社。
                  僧侶が管理した神社「石清水八幡宮」など。
    3. 正式な社殿を持たない神社など。

  3. 平安時代中期~鎌倉時代、その国における第一位の地位を占めた神社を『一宮』と称した
    • そもそも伊勢国は、延喜式に記される国の四等級のうち最上位である大国で、国内には斎宮鈴鹿関など特別な役所を有した。
    • 奈良時代中期頃から後半にかけて、伊勢国府は鈴鹿川の支流・安楽川の左岸(現・鈴鹿市広瀬町)に在った。(出典・『史跡伊勢国府跡』2018年3月鈴鹿市) 
      椿大神社は鈴鹿山系の麓(現・鈴鹿市山本町)に鎮座して、国府とは近距離に在った。

    1. 平安中後期になると、国司の巡拝は任国内の有力な神社から行われるようになり、その巡拝順によって、一宮、二宮と呼ばれるようになった。
      • 伊勢国の「一宮」は、椿大神社(つばきおおかみやしろ)都波岐(つばき)神社の二社。
        (一宮は世の推移とともに交替したり、複数所在する国もある)
    2. 中世後期には次第に変質・解体し、太閤検地などにより最終的に解体。
      一宮の呼称は近世以降も維持され現在に至っている。   

  4. その後も鎌倉時代~江戸時代を通して、この神社制度の中で「椿岸神社」は「式内社」として継続維持されてきました。

  5. 明治維新後、新たに「近代社格制度」が整えられました。
    1. 「伊勢神宮」は、全ての神社の上にあり社格のない特別な存在とされる。
    2. 神社は「官社」と「民社(または諸社)」に分けられる。
      1.神祇官の管轄の「官社」は、官弊、国弊、別格官幣社に分類される。
      2.地方官の管轄の「民社」は、県社>郷社>村社>無各社に分類される。
        「椿岸神社」は、地方官管轄の村社と位置づけられました。

  6. 1946年(昭和21年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「国家神道の廃止の指令」によって、「神道・神社」と「国家」が完全に切り離され、廃止されました。 
    この結果、神社は在来の国家的性格を改めて、宗教法人として発足しました。
  • 上記のとおり、現在、神社には社格制度(神社の等級(ランク))はありません。


別添・・・「桜西区の地図」から歴史を読む
江戸時代1773年(享保18)、字椿尾とその周辺
  1. 【地図】江戸時代
    江戸時代の人口増加と食糧不足は、当地でも避けて通れない緊急課題でした。
    食が充分でなければ人口は増加しない。人口増加は食糧需要のリスクではなく、労働力が増えたことでより広い土地を開墾することが出来て、食糧増加の可能性に繋がった・・・と、当地の場合は考えられると思います。
    下記の絵図は「享保18年(1733年)佐倉・櫻一色・智積村山野論の絵図」西側半分です。
    享保18年(1733年)、水沢との境界近くを走る「草刈道」(現・県道752-753号線・茶屋町湯の山停車場線、「四日市スポーツランド」、「県環境学習センター」への道)の道沿いで、佐倉村・櫻一色村・智積村の三村で境界争いが起こりました。
    それを解決するため、智積村、佐倉村、櫻一色村の三村の庄屋・年寄・惣百姓代の計15名(佐倉村・4名、櫻一色村・3名、智積村・8名(当時は有馬藩領と長島藩領の支配)で立会実地検分を行い、内山立会の境と畑地等を仕分けして「境塚」を各所に設置しました。そして合意後に作成した絵図に各々が著名して厳重保管されました。
    ここでは「椿岸神社」が”椿尾”から”智積村”へ遷座後、213年後の変化を、享保18年(1773年)に作成された「山野論の絵図」から見ていきます。
    享保18年(1773年)「佐倉村・櫻一色村、智積村山野論の絵図」巡見街道以西を切り抜き、文字等挿入しました。(加工責任・永瀧)

  2. 上記絵図の”赤色点線”で囲った所は「すヾはら出屋敷(でやしき)です。
    • 「出屋敷(でやしき)」とは、江戸時代、新田開拓などで新しくできた農村のことです。
    • 「坊主尾出屋敷」と「笹尾出屋敷」は「御巡見道」に近く、交通の利便性から集落として発展に繋がったと考えられます。
    • 「すヾはら出屋敷」は、定住化には繋がらなかったようです。

  3. 同じく上記絵図の出屋敷以外の場所に建つ小屋は、田屋(たや)と呼ばれます。
    自宅から歩いて遠距離の田畑へ出作り期間中だけ住むために建てた小屋=「田屋」です。

    • 坊主尾道沿いに建ち並ぶ「4軒」は全てが単なる「田屋」かどうか不明です。
      「字椿尾」に「椿岸神社」が鎮座の頃には、”字屋敷尾”は「神職の邸宅なりと云う」と『櫻地誌草稿』は記します。(「神職と世話人とその家族が住んでいた」と伝承されています)
      従って、4軒のうち1軒は、世話人の子孫が農作業しながら、”ししこば”を守り続けていた可能性も考えられます。

    • 昭和一桁生まれの先輩郷土史家の話
      「昭和末期頃、「椿尾」と「屋敷尾」の山林を歩き回って椿岸神社の手がかりを探していたら、”かわらけ”(素焼きの土器・御神酒を入れる土器)の破片を発見した」そうです。

  4. 『伊勢の智積郷 ー様相と史料ー』山田教雄著
    「椿大神社の獅子頭」が菰野近郊に巡行するときは、椿尾の峠「奉舞」を手向ける習わしが古くからあり、獅子の来る4年目ごとに、智積出屋敷に住む庄左衛門という者が、この辺りの清掃をする決めになっていた。」と記されています。
    • 「智積出屋敷」は何処か? 「すヾはら出屋敷」を指すのか、上記3.で既述した「坊主尾通沿いの田屋の1軒」を指すのか、不明です。
    • 一方、椿大神社のお獅子が菰野へ行く際、「椿尾の”ししこば”で四方ざしの舞を舞う」という慣例は大正時代まで残っていたと伝えられています。
    • 時代の変遷につれて、当地での「椿大神社の奉舞」は変更・簡略化され、現在では桜地区内9か所で「椿宮獅子神門御祈祷」と「椿岸神社」の境内で「椿宮獅子神御祈祷神事斎行」として引き継がれているようです。

  5. 上掲の絵図は右半分を省略していますが、「坊主尾通」の文字のすぐ右隣の文字列は、「此ノ北山通リ谷々佐倉村櫻一色村田畑之有リ候エドモ、論外故之ヲ略ス」と記しています。
    • これは、江戸時代の人口増加に伴う食糧不足に対処するため、佐倉村と櫻一色村の人々は、標高176m前後の連山の山間(やまあい)や山裾(やますそ)を耕作し畑地としていたことを表します。
    • この畑地は、昭和の戦争期の食糧不足の際にも大いに役立ったそうで、中には昭和末期頃まで耕作されていた土地もあったそうです。(2000年頃、当時の先輩郷土史家の話)

  6. また、この絵図作成から76年後1849年(嘉永2)、幹谷(いんだに)地区の村人が、米増産を願って、津藩領主に「字大谷の山地に灌漑用溜池築造の許可」を出願しました。
    藩主の許可が下りて、溜池・「大谷池(弁天池)」が築造され、その結果、溜池の下段丘に新田が開墾され田地が広がりました。
    「弁天様と山の神」と、「桜町西区のマンボについて」の「弁天池(大谷池)のマンボ」ページも合わせてご参照ください。


                   ー 完 ー
(文責・永瀧 洋子)  

参考文献:『三重県神社誌』(三重県神社庁)、『式内社調査報告』(皇學館大学)、『明治十七年調伊勢國三重郡智積村地誌』、『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、「永禄四年(1561年)椿岸神社司神主近藤忠胤謹白」、『七郷の総社椿岸神社の歴史と氏子の関係』椿岸神社社務所発行、『椿大神社二千年史』資料・椿岸神社縁起 、『四日市市史7巻、16巻』、(出典『日本史辞典』岩波書店)、『延喜式』虎男俊哉著、『神社と日本人』島田裕巳監修、 『神社の古代史』岡田精司著、『縮刷版・神道辞典』國學院大學日本文化研究所、『日本史のツボ』本郷和人著、『神社の由来がわかる小事典』三橋健著 、『天災から日本史を読み直す』磯田道史著、『絵図で読み解く天災の日本史』別冊宝島、『神社合祀に関する意見』南方熊楠著、『神社の起源と歴史』新谷尚紀、       (2021年6月更新、2022年3月5日更新)