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桜神社跡の碑 ![]()  | 
      
| 「桜神社跡の碑」の所在地・・・三重県四日市市桜町一色(字武佐(あざむさ)) 近鉄湯の山線「桜駅」から約200メートル  | 
    
  (四日市市公開型GISを基に加工作成。eitaki) | 
    
| 『明治十八年伊勢國三重郡智積村地誌付属之圖、同櫻村地誌附属之圖』 (明治十八年(1885)作製の両村地誌附属圖を繋ぎあわせ、文言等を適宜挿入作成) 明治十八年当時の「櫻神社」の位置 地図上の北を東西に流れる「山上井」は、「安正寺」の傍で急カーブして南方向へ流れます。 安正寺の南東の「山上井」の近くに「櫻神社」  | 
    
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| 目     次 | 
    
| 1.桜神社について | 
| 2.明治42年〜45年頃の桜神社と地蔵堂の風景画 | 
| 3.碑表に彫られた漢詩について | 
| 4.考察「桜一色村の由来」について | 
| 1.桜神社について | ||||||||
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| (1)桜神社の概要 「桜神社」は、上掲写真の石碑の位置から南方180坪の境内を持つ桜一色村の産土神(うぶすながみ)で、村民の篤い崇敬を集めていました。 次項の風景画に見られるように、桜神社の鎮守の森は一年中緑に覆われていました。 常緑広葉樹は暴風雨に強く、尚且つ幹や葉に多く水分を含んでいて火事にも強いので神社によく植えられます。 桜一色村の鎮守の森は、人びとが永年培った知恵や経験など記憶の塊(かたまり)であったと思われます。 しかし残念なことに、1909年(明治42)に、政府の“一村一社の神社合祀令”によって、桜神社も他の神々と共に”椿岸神社”に合祀されてしまいました。 (桜地区内の「神社合祀」関連ページへリンク) 
 (2)桜神社に関係ある「小字(こあざ)」について (出典・故桜郷土史研究会会長石川清之宅『石川家文書』) 
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| 2.明治22〜42年頃の桜神社と地蔵堂 | ||||||
| 【三重縣伊勢國三重郡櫻村大字櫻 御厨櫻神社及櫻岡之圖】 向って右に、大樹に包まれた神聖な「桜神社」の景観をうかがい知ることができる貴重な絵図です。 (尚、この絵図は「桜の史跡NO.8地蔵堂」のページでもご紹介しています) 
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| 3.碑表に彫られた漢詩について | 
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| 4.考察「桜一色村の由来」について | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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はじめに 「桜一色村」は、江戸時代初頭から明治8年(1875)7月迄は、紛れもない行政単位の「一村」として存在しました。 しかし、同年の8月、桜一色村と佐倉村が合併して「桜村」となり、残念ながら「桜一色村」という村は消えました。 
 「桜一色村は、佐倉村から枝分かれした村である」と、永年言い伝えられてきたことについてです。 それは、果たして真実でしょうか? ここでは、「桜一色村は佐倉村から枝分かれした村」であるかどうか、歴史的考察を試み検証します。 (1)桜一色村は佐倉村から枝分かれした村か? 
 
 
 (4)結論 
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| 参考文献:『明治十七年調伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』、『明治十八年作伊勢國三重郡櫻村地誌附属之圖』、『明治十八年伊勢國三重郡智積村附属之圖』、『四日市市史第7、16巻』、『伊勢の智積郷』(山田教雄著)、『桜町一色『石川家文書』、『日本地名語源事典』(吉川茂樹著)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本史辞典』(岩波書店) 改訂2014.07.03 (文責:永瀧 洋子)   |