桜地区内に様々な石碑が残されています。 桜一色の瑞光の石碑のようになぞめいたものから、格調高い漢詩文で歴史を謳い上げた石碑、故人の威徳を讃える石碑、文学の薫り高い郷土出身俳人の句碑などがあります。 それらの石碑を、おおよその建立年代順に記載しました。 |
瑞光(ずいこう)の石碑 詳細は桜の史跡「瑞光の石碑」のページへ | |||||||||||
写真撮影日:1998年4月 撮影:故藤岡修氏 |
写真撮影日:1998年4月 撮影:故藤岡修氏 |
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2002年4月撮影 現在は、一色公会所の敷地内、玄関の東側にこの様に大切に安置されています。 この辺りは金渓川の南岸の河川敷で、昔は大雨が降るとたちまち氾濫原となった所です。 |
引石(ひきいし) 詳細は桜の史跡「引石」のページへ | ||
【北岸(左岸)と南岸(右岸)の引石】 上掲写真のように、 西勝寺境内で保存頂いています。 |
【北岸の引石】 碑表:「夜分?」 碑陰:「南無阿」 |
【南岸の引石】 碑表:「高水の時なわ引石」 碑陰:「南無阿弥陀佛 願主久兵衛」 |
所 在 地: 四日市市智積町693 西勝寺の山門をくぐり境内の右手 北岸の引石の碑左側:「寛政□卯三月」・・・寛政7年(1795年)3月 この一対の引石は、1795年3月の建立と判断されます。 |
櫻神社跡の碑(桜町一色の桜神社跡の碑) 詳細は桜の史跡「桜神社」のページへ |
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撮影日:2002年4月22日 |
撮影日:2002年4月22日 |
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所在地:四日市市桜町一色 建立年:明治二年三月十五日 碑表:漢詩 碑陰:氏子中 |
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《漢詩》 三重之郡櫻一色東海之道伊勢國土人 久崇櫻神社神木栽培切相力有櫻御厨 櫻神田勧請年月不可識閲了古傳幾許 書神廟貢献遥堪憶中認延暦及應和何 須後人労筆墨郷里南隣佐倉村社地境 界近相逼櫻山櫻岡春最勝物換星移一 歎息別有國司創建寺櫻岡山下感概極 黙検荘園舊地名無限櫻宇記疆域 謁櫻一色鎮守櫻神社有所感恭賦之 明治二己巳年三月十五日 松齋隠士 山田直行 爰に当国安濃津の儒山山田松齋当社に詣でて詩有り曰く 《漢詩意訳》 三重の郡桜一色。東海道伊勢の国。土人 久しく崇む桜神社。神木栽培切に相力む。桜御厨 桜神田あり。勧請の年月識る可からず。古きより伝う幾許の書を閲了し。 神廟貢献遥かに憶うに堪えたり。中に認(したた)む延暦及応和と。何ぞ 須(もちいし)や後人の筆墨を労するを。郷里は南隣す佐倉村。社地境 界近く相逼る。桜山桜岡春最も勝る。物換り星移り一に 歎息す。別に国司寺を創建す。桜岡山下感慨極る。 黙して荘園旧地を検す。限り無き桜字疆域を記す。 桜一色鎮守桜神社に謁し感ずる所有り恭しく之を賦す。 明治二己巳年三月十五日 松齋隠士 山田直行 |
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櫻神社の碑 (桜町の桜神社碑) | |||
撮影日:2002年4月22日 |
所在地:南区公会所 碑表:櫻神社 碑陰:明治十六年建之 桜村壮年中 |
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前項の「桜町一色の桜神社」とは別に、往古から明治42年に「椿岸神社」に神社合祀されるまでには、現・桜南区公民館の敷地とその北側に、倍の敷地を持つ村社格の「桜神社」があり、元佐倉村の産土神でした。 合祀の際、本殿は椿岸神社本殿に、拝殿は安正寺の鐘撞堂に利用されました。 |
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御大典記念碑(ごたいてんきねんひ) 詳細は桜の史跡「一生吹山の歴史」へ | ||
撮影日:2006年2月17日 |
(石柱部分を拡大) |
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所在地: 一生吹山公園内(智積町4705) 碑表: 御大典記念碑 碑右側: 刻字ナシ 碑陰: 帝國在郷軍人會櫻村分會東区班 [石藤] 碑左側: 昭和三年十月建之 |
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《御大典》 天皇御即位の式典 旧皇室典範の【第一章 皇位継承 第十一条 即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ】に沿って、大正天皇の喪が明けた翌年の秋、昭和3年(1928)11月京都御所で、昭和天皇の御大典として即位の礼と大嘗祭が行われました。 全国各地で昭和天皇の即位を祝して「御大典奉祝行事」が盛大に行われました。 |
二宮金次郎の碑(にのみやきんじろう の ひ) | |||||
撮影日:2002年4月22日 |
二宮金次郎像は、昭和10年代、特に皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)前後に建立された事例が多いようです。 |
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一生懸命に働き学ぶ彼の姿に目をつけた明治政府は、その勤勉な姿勢を国民に浸透させようとしましたがあまり盛り上がらず、昭和の軍国体制をとった政府が、愛国心を培うために彼の立像を全国各地の小学校に建てさせました。 言い換えれば、二宮金次郎像は、当時の大日本帝国主義における学び舎のシンボルであったのです。そのため敗戦後は、彼の銅像を取り外そうとする動きがあり、実際、多くの学校で取り外されました。 しかし、本来の二宮金次郎の姿である勤勉・勤労の精神を、純粋に奨励するものとして、そのまま像が建てられている学校がたくさんあります。 |
皇紀二千六百年記念碑 | |
撮影日:2002年4月22日 場所:旧桜地区市民センターの庭 |
所在地: 桜町547番地(坂井歯科様の庭) (平成20年12月、旧桜地区市民センターの敷地内から移設) 碑表: 皇紀二千六百年記念 陸軍少將坂井兵吉書 碑右面: 昭和十五年二月十一日建立 碑陰: 富士同窓会 石川醇三 中川千吉 山原竜一 石垣徳一 奥山清六 山原末吉 伊藤鐵夫 奥山才市 山北勝三 伊藤利平衛 奥山秀道 小林甚之助 川口武市 奥山新一 坂井喜三 川口増吉 大矢華平 坂井長次 辻 紋一 山北敬三 平尾重男 碑左面: なし |
≪皇紀2600年とは≫ 日本の紀元を、『日本書紀』に記す初代天皇・神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として、起算すると1940年の昭和15年が皇紀2600年に当ります。 この年、全国各地で各種の奉祝行事が催行され、桜地区の皇紀2600年記念事業には、この記念碑の建立と下記の釣谷林道の敷設があります。 ≪紀元節とは≫ 『日本書紀』の記述:「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮」(神武天皇が紀元前660年1月1日に橿原の宮で即位した)にもとづき、1872年(明治5)、明治政府が太陽暦に換算して2月11日を紀元節と定めた祝日。 第二次世界大戦後の1948年(昭和23)に廃止された。 1966年(昭和41)、「建国記念の日」として復活し翌年から実施。 ~~~時は流れて~~~ |
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釣谷林道(つりたにりんどう) 詳細は 桜の史跡「釣谷林道」のページへ | |
撮影日:2002年4月22日 |
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所在地: 椿尾西端 乾谷公会所前の交差点から坊主尾道を西方へ約1.6km。道の右側 碑表: 「皇紀二千六百年記念 勤労報国 釣谷林道 櫻村青年団」 碑陰: 「昭和十五年二月十一日 建之」 神武天皇即位の日から2600年に当る昭和15年には、日本各地で奉祝行事が行われたり記念奉祝碑が建てられている。 皇紀2600年については、上記「皇紀二千六百年記念碑」を参照してください。 |
小林繁太郎村長の彰功碑 撮影日:2014年3月9日 |
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碑表 「小林繁太郎彰功碑」 |
碑陰 「昭和二十九年建之 三重郡櫻村」 |
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所在地: 四日市市桜町西、高岡山(標高199m) 四日市スポーツランド内 「スーパースライダー」の横 碑 表: 「小林繁太郎彰功碑」 碑 陰: 「昭和二十九年建之 三重郡櫻村」 (昭和29年4月20日建立) |
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《小林繁太郎村長の功績》
下記は、江戸時代の「入会地」が、1954年(昭和29)に「桜財産区」となるまでの経緯を、『桜の昭和史 第二集』(桜郷土史研究会編)を参考にして箇条書きしたものです。
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教尊法師の碑(きょうそんほっしのひ) 詳細は、桜の史跡「教尊法師の碑」のページへ | |
「教尊法師の碑 碑表」 撮影日:2002年4月22日 |
「碑陰」 撮影日:2002年4月22日 |
所在地:山上公会所敷地内 碑表: 「法蔵坊開発 教尊法師之碑」 碑陰: 「近江国神崎郡山上郷山田城主 小椋頼利公ハ故アッテ 本願寺蓮如上人ニ帰依シ法蔵坊教尊ト称ス ヤガテ 同信ノ徒十六名と共ニココ桜岡ニ来タリ最初ノ念仏 道場タル法蔵坊ヲ創立シタノハ 延徳二年ト言ウ 時ヲ経テ里人旧里ノ郷名ヲ以ッテコノ地ヲ呼ブ イヤソノ余裔 教尊法師ヲ敬慕シ謹ンデ遷化ノ地ニコノ碑ヲ建ツ ○時 昭和五十七年八月 山上垣内 西勝寺門徒中」 |
田中七草句碑(たなかしちそうくひ) 詳細は、桜観音堂の詳細はここから | ||
撮影日:2002月4月22日 |
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《田中七草》 本名田中雄吉。明治32年、現・四日市市桜町に生まれる。 県立第二中学校(現四日市高校)を卒業、仙台の第二高等学校を経て、東京大学医学部卒業後、産婦人科教室に入局。ここで、上司である水原秋桜子に出会い、高浜虚子主宰の句誌「ホトトギス」に出句を始める。 昭和6年以降は、秋桜子主宰の「馬酔木」に入会して作句活動を続ける。 昭和医学専門学校教授を経て、昭和13年帰郷後、四日市で開業。 戦中戦後は作句を中止。 その後昭和30年から再び「馬酔木」に投句、「四日市馬酔木の会」を結成、以降七草の充実期を迎える。 秋桜子の没後の昭和57年に「馬酔木」は分裂するも、七草は「三重あしびの会」を結成して、師秋桜子の意志を継ぎ、地元での指導育成にも力を注ぎ、桜地区老人俳句会「桜たのし句会」の指導もする。 昭和62年6月、88歳にて他界。 俳句集:『浜木綿』は「浜木綿の百葉そよがす月出ずる」の句からとられた。 (参考文献:『文学碑とその風土』志水雅明著) |
服部大渓句碑(はっとりたいけいくひ) 椿岸神社の詳細はここから | |
撮影日:2002年4月22日 |
所在地:智積町 椿岸神社境内 碑表: 神苑の照る日くもる日さへづれり 大渓 碑陰: 昭和六十一年春 桜たのし句会 この句は、大渓の句集『返り花』(昭和57年)に収載されています。 |
《服部大渓》 本名服部寅三。明治43年2月、現・四日市市桜町に生まれる。(桜郷土史研究会の前会長服部捨男氏の兄上様) 地元の桜尋常高等小学校卒業以来、農業に従事し、昭和3年の御大典奉祝の際、椿岸神社に上記「返り花」の句を奉納。 戦時中は作句を中止。 戦後、再び作句を始め、昭和46年から俳誌「揖斐」が発刊されると、主宰者土生暁帝の指導を受け「田園詩人」と暁帝に言われるまでになった。 昭和53年より、大渓が中心となって、「桜たのし句会」が発足し、大渓の他に地元出身の田中七草や故土生暁帝の指導をも得て、昭和59年には合同句集「みさくら」を発刊し、その序で大渓が「草の露老が踏みゆく道遠し」と詠っている。 「桜たのし句会」は、現在も桜地区市民センターのサークル活動として続けられている。 (参考文献:『文学碑とその風土』志水雅明著) |
百度石(ひゃくどいし) |
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1.一生吹山毘沙門天の百度石 一生吹山の詳細はこちら | |
2006年2月17日撮影 |
所在地: 一生吹山公園内 (智積町4705) 碑表: 百度石 碑陰: 昭和六年四月施主 中村善四郎 小林兵十郎 中里佐吉郎 寸法: 幅170×奥行165×高さ1140mm 特徴: ※毘沙門天堂に向かって立てられているのは百度石として理に適っているが、現在は石と植木で装飾されモニュメント化している。 ※柱頭が四角錐形。 |
2.桜観音堂の百度石 (新旧2本あり)) 桜観音堂の詳細はこちら |
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旧百度石 2006年2月17日撮影
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新百度石 2006年2月17日撮影
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3.椿岸神社の百度石 椿岸神社の詳細はこちら |
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2006年2月17日撮影 |
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参考文献:『新世紀百科事典』学習研究社、『広辞苑』、百科事典マイペディア、『文学碑とその風土』志水雅明著) |