「桜の史跡」NO.16
         

           (さくらかんのんどう)

           「桜の史跡説明板集O」 「桜の史跡地図」O   


聖観世音菩薩像
(撮影:2014年4月20日)

観音堂の内観

2014年度『観音祭り』の準備期間中に許可を得て
撮影させて頂きました。


(撮影:2014年4月20日)

観音堂への参道

(撮影:2014年4月20日) 
  

六組堂(むくみどう)
六角形の桜観音堂外観 (撮影:2014年4月22日)



   1.桜観音堂「由来書」の概要 
 遠い昔より、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を祀った観音堂があり、村人の信仰を集めて永年「観音さん」と親しまれてきました。

 「観音堂」は、寛保年間(1741〜43)の文書では、既に誰が何時建てたのか分からないと記されていますが、「由来書」には、1777年(安永6)以降の出来事が記されています。

 由来書  
  1. 安永6年(1777)霜月(11月)、「字西の平」の四日市県立西高校庭内に再建される。それ以前のこと、誰が何年に創立したのか、またその場所も不詳。
  2. 昔は、一色、山上、坊主尾、佐倉の若衆たちの手で盛大な縁日(7月18日)が行われ、村人達の信仰と親睦の場となっていた。
  3. 幕末の頃には、馬駆けが行われたという伝承がある。
  4. 明治27年(1894)、墓地の移転に伴い、「字西の平」から200メートルほど南南東の「字東別所」にあった薬師山(通称観音山)に遷座される。この場所は現在の桜台一丁目の墓地です。
  5. 昭和45年(1970)、桜台団地造成に伴い、一時期、すぐ傍の桜台外周道路西側の桜台1-34-1(現・教育サプライ本部付近)に移設される。
  6. 昭和49年(1974)、現在の地に御堂を六角堂に改築して遷座される。


   
   2・明治17年(1884)頃の「観音堂」の様子
(1)『明治17年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』より
  • 場所・・・・・字西の平
  • 寺域・・・・・東西6間(≒10.9m)、南北5間(≒9.1m)、面積31坪(≒102.3u)
           境内:樹木なし
  • 本尊・・・・・観世音石像
  • 創立年月不詳
  • 縁日・・・・・毎年7月18日
    (註)
    現在の縁日は4月18日前後の日曜日に行われますが、明治17年当時の縁日は、佐倉城主小林重則が死去した祥月命日(7月9日)と同月の7月18日であったことが分かります。

    桜観音堂の位置図  ○数字・・・@から遷座順
     @1777年(安永6)「字西の平」に再建される  
     A1894年(明治27)「字東別所」通称観音山へ遷座
     B1970年(昭和45)桜台1-34-1へ遷座     
     C1974年(昭和47)現在地へ遷座


(2)「観音まつり」について
  • 永年、毎年4月18日は「観音さんの縁日」と決まっていましたが、
    現在では日曜日が好まれ18日前後の日曜日と決めて、当日は
    安正寺ご住職の法要と法話が粛々と執り行われます。

      2007年4月15日(日)の観音まつり (雨天決行) 
        午前10時より  お供え受付
        午後 1時より  法要・法話   主催:桜町南自治会


             (撮影:2007年4月12日 観音堂掲示板の案内書)⇒             



  • 縁日とは
     特定の神仏に縁を結ぶ日。ある神仏の降誕・示現など、特別の縁があるとして祭典・供養を行う日。この日に参詣すると大きな功徳があるとされる。
     毎月18日は観音の縁日です。
      その他の主な縁日
        毎月5日:水天宮、 毎月8日:薬師、 毎月24日:地蔵菩薩、
        毎月25日:天満宮、 毎月28日:不動尊 などがあります。
 2007年4月15日(日)  観音まつり当日

(安正寺住職様の法話)

(参詣者)


(3)観音堂の石造物
  • お百度石
    新旧ニ本あり、新しい百度石は境内に、古い百度石は桜観音堂上り口左側の掲示板の裏にあります。
    詳細は「石碑いろいろ」のページの「桜観音堂の百度石」をご覧ください。

  • 山の神
    桜観音堂境内、六角堂の南側に鎮座します。
    詳細は「山の神」のページの「山神−2 桜観音堂境内の山の神」をご覧ください。

  • 田中七草句碑
    1980年(昭和55)に、桜地区老人俳句会「桜たのし句会」によって建立されました。
    詳細は「石碑いろいろ」のページの「田中七草句碑」をご覧ください。

  • 佐倉城主の墓石
    桜観音堂の階段に、佐倉城主小林重則の墓石と、戦死者の五輪塔が多数あります。
    桜観音堂参道の階段脇に注目!(2007年4月15日撮影)


    「天文の役供養碑」「桜観音霊場の碑」、墓石群 中央のひときわ大きい佐倉城主墓石 
    • 桜地区内が戦場となった「天文8年の戦い」を、幾星霜を経て今日に伝える墓石群です。
    • 参道の中ほどに、ひときわ大きい佐倉城主墓石、そして戦死者の五輪塔が多数並んでいます。
      【由緒】
       天文8年(1539)7月9日に佐倉城主小林重則の敗死後、子孫の小林家では、佐倉城跡の下屋敷内に、城主重則をはじめ敵味方問わず、討死した者全ての冥福を祈って50基ほどの五輪塔を建て、また傍らに薬師如来を祀る六組堂(むくみどう)と呼ぶお堂を建てて、毎年命日の7月9日に供養していました。
       しかし、時代の推移と共に建物は荒廃し明治初期には取り壊されました。
       それ以降、永年の風雪に耐えた墓石と五輪塔は、安正寺に移された時もありましたが、昭和56(1981)年にこの地に改めて移設されました。
       毎年観音さんの縁日には、安正寺住職様によって佐倉城主小林重則と全戦死者の法要が営まれます。

       「佐倉城主小林重則の詳細」は、「一生吹山の歴史」のページをご覧ください!