平安時代
1160~1167年頃
(永暦元~仁安2) |
当地に、貴族西園寺家(さいおんじけ)の智積御厨(ちしゃくみくりや)が成立する。(『荒木田章氏等申状』)
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鎌倉時代
1200年
(正治2)
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多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)創建
智積御厨の守護寺
(詳細は「智積御厨と多宝山智積寺」へどうぞ) |
鎌倉時代
1328年
(嘉歴3) |
この頃、婚姻による財産分与などで、智積御厨の所有者は西園寺家から、中御門家(なかみかどけ)へ移る。
- 中御門家(なかみかどけ)通称松木家(まつのきけ)
藤原北家中御門流本宗の堂上家。
室町時代以降、家名を松木家と改めた。
家格は羽林家。(明治維新後、華族令によって伯爵に叙せられた)
- 家業は、楽道・笙(しょう)。
- 笙
雅楽に使用される気鳴楽器。
奈良時代に唐から伝わり、
律令制下、唐楽に合笙師1人、合笙生4人が置かれた。
9世紀の楽制の改革後は、管弦・唐楽・歌物の奏楽に用いられた。
(出典:『日本史辞典』岩波書店 )
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南北朝時代
1360年頃
(延文5)頃 |
南北朝期、「智積御厨」の領域は、現在の智積町と桜町を中心に北方へ伸び、菰野町神森、平尾町、上海老町、下海老町と推定される。(『神鳳鈔』)
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戦国時代
(室町時代)
1467~1477年
(応仁元~
文明9年) |
応仁・文明の乱 1467~1477年(応仁元年~文明9年)
- 「応仁の乱」は、室町時代1467(応仁9)年から、1477(文明9)までの11年間に、京都を中心に行われた大規模戦乱。
この大乱で京都は焦土と化し、将軍の権威は失墜し、幕藩体制・荘園制度崩壊の引き金となった。 - 戦乱を免れて地方に下った公家たちによって、文化の地方伝播がなされた。
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戦国時代
1498年
(明応7年) |
明応地震 1498年(明応7年)8月25日、東海道沖で大地震が発生。
南海トラフ巨大地震と推定されている。津波は紀伊から房総半島にかけて襲来した。
- 伊勢神宮内宮の『内宮子良館記(ないくうこらかんき)』には
「伊勢大湊で家屋流出1千、溺死5千、伊勢志摩で溺死1万とされ、宮川河口付近にあったと推定される塩谷村では塩浜(塩田)が被害を受け塩業が成立しなくなった」とある。
- 安濃津(あのつ、現・三重県津市)は、室町時代の「廻船式目」で「三津七湊」のうち、「三津」の一つに数えられた港湾都市でしたが、明応地震で壊滅した。
「三津」・・・安濃津(三重県津市)、博多津(福岡市)、堺津(大阪府)
- 浜名湖は淡水湖であったが、明応地震と津波によって砂堤(砂州)が決壊し海と繋がり、汽水湖(きすいこ、淡水と海水が入り混じっている湖沼)となった。
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戦国時代
1499年(明応8)
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1499年(明応8)
「智積御厨」の領家・松木宗綱は、京の混乱を避け、子の宗藤らを伴い智積に移り住む。
- 明応八年巳羊、 予六歳 (出典・『巌助往年記』醍醐寺理性院巌助著)
十一月、里女房衆、予兄妹以下悉伊勢下国始也
(「巌助」は父の松木宗綱に連れられて智積へ来たが、後に出家して醍醐寺理性院巌助となる)
以後、松木家の宗綱、宗籐、宗房の三代にわたって80余年あまり智積に在住する。
(しかし、この間、当主や息子たちは度々上洛している)
- 松木宗綱(14代)・・・ 1444(文安元)年 ~ 1525(大永5)年
(1)松木宗量の孫 従一位准大臣(室町幕府将軍足利義稙の信任得る)
(2)智積で死亡。
(3)松木宗綱の息子は、宗藤と巌助と他2名。
(4)宗綱の後継は宗籐。
(5)巌助は醍醐寺理性院の僧侶で『巌助往年記』の著者。
巌助は永禄10年(1567年)74歳で没(出典『醍醐寺文書』)
- 松木宗籐(15代)・・・1490(延徳2)年 ~ 1560(永禄3)年
(1)松木宗綱の息子 正三位権中納言
(2)智積で元服
(3)加賀姫の父
(4)宗籐に後嗣が無かった為、飛鳥井(あすかい)雅教の子宗満を養子に迎え「宗房」と改名。飛鳥井家も松木家と同格の羽林家。
- 松木宗房(16代)・・・1537(天文6)年 ~ 1593(文禄2)年
(1)松木宗藤の養子
(2)正二位・権中納言
(3)加賀姫とは義理の姉弟
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戦国時代
1515年(永正12)
加賀姫生誕 |
松木宗藤の息女加賀姫生まれる。(幸田神社の棟札の年号から逆算)
加賀姫の生誕地は不詳。 |
戦国時代
1532年~40年頃
(天文年間の初め頃)
加賀姫17歳~25歳頃智積へ来る
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1532年~40年頃(天文年間の初め頃)、加賀姫が17~25歳頃、父親宗藤に伴われて智積に来る。
【考察】加賀姫が智積へ来た年について
- 『櫻村地誌』には、天正年中(1573~1592)に、松木家の息女加賀姫が乱を避けて本村に来たと記しています。
- しかし、『巌助往年記』は「永禄三年、五月、伊勢黄門圓寂 中将俄下国事有之」とあります。
「永禄3年(1560)5月、松木宗藤は死亡した」と記しています。
*『巌助往年記』の著者巌助は、松木宗藤の弟。
*松木宗藤(伊勢黄門)は死亡した。
*伊勢黄門・・・中納言の唐名を「黄門」という。(例・水戸黄門)
*圓寂・・・・・涅槃に入ること。入寂。
- 結論
加賀姫誕生年と、加賀姫が父親松木宗籐に伴われて智積へ来た年を順に追う。
- 『巌助往年記』は、松木宗藤は永禄3年(1560年)5月死亡と記す。
- 『櫻村地誌』は「天正年中(1573~1592年)に父宗藤が加賀姫を伴って智積へ来る」と記しますが、これは宗籐の死後となるので、採用できません。
- そこで、加賀姫90歳で「幸田神社」を創建した年は、「棟札」に慶長10年(1605年)と明記されているので、逆算して、加賀姫の「誕生年」は1515年となる。
- 加賀姫が父松木宗藤に伴われて智積へ来た年は、山田教雄先生の「天文年間の初め頃」説に沿って、加賀姫17歳~25歳頃と考察します。
*天文年間は1532年~1555年。
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戦国時代
1539年(天文8)
一生吹山の戦
加賀姫24歳 |
1539年(天文8年)、佐倉城主小林重則は鈴鹿郡の峰城主に攻め滅ぼされた。
この時、加賀姫は24歳。上記の考察から既に智積の地へ来ていて、この戦乱に遭遇した可能性があります。
- しかし峰氏の攻撃は、”智積御厨の利権”を小林氏から奪取するのが目的であったため、松木領主家への乱暴狼藉は無かったと考えられます。
- また若き城主小林重則も、「武士の戦」と心得て、城へ逃げて盾籠(たてこも)ることはせず、被害を最小限に抑えるべく矢合川河畔で自害しました。
- 戦国時代、戦場に臨時兵として駆り出された農民兵=雑兵が、戦勝後の給料の代わりに穀物や家財や女子供を含め人を略奪する行為は”乱取り”として黙過されていました。当地でもその類の被害はあったと伝承されています。
- この戦の詳細は「一生吹山の歴史」のページへ
特に「佐倉城は何故攻略されたのか?」の項はこの戦の主な原因です。是非ご参照ください。
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「加賀屋敷」
と
「字姫御前平」 について |
「加賀屋敷」と「字姫御前平(あざひめごぜひら)」について
- 「加賀屋敷」
『明治十七年編伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』は、「天正年中、西京縉紳家(しんしんけ。高い官位を有する家格)松木殿(中御門別号)息女加賀姫、乱を避けて本村東境即ち智積村の地に住す。今にその地を加賀屋敷と唱う。今是れを加賀屋敷と旧字せり。」
また、「櫻一色村の名主・町野清兵衛に姫の世話を依頼する。」と記します。
- しかし、翌年に作成された『三重郡櫻村地誌付属六千分壹之圖』には、「加賀屋敷」も「加賀屋敷という旧字の所在地」も記載されていません。
考えられることは、
明治初年頃まで、当地では「加賀姫の伝承として「加賀屋敷」と「加賀屋敷という旧字」の位置を、村人の誰もが認知していた。しかし、その該当地は、恐らく既に他者の所有地となっていて、地図上には表記不可能であったかと推察されます。
- 「字姫御前平(あざひめごぜひら)」は、加賀姫の所有地・化粧料地で、現在の西高校のグラウンドの西端辺りです。
- 明治17年調べ「姫御前平」の反別(田畑の面積)は、三町六反八畝五歩≒3.65ヘクタール。
- 化粧料地(化粧田)とは、中世(鎌倉・室町・戦国時代)、女性が親の生前に与えられた相続財産です。
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戦国時代
1548年(天文17)
加賀姫33歳 |
加賀姫の父・松木宗藤、智積で出家(59歳)。(出典『嚴助往年記』)
「天文十七年、十月二日、萬里黄門御入寺也」・・・遠く離れた里の中納言が出家されたとある。 |
戦国時代
1560年(永禄3)
加賀姫45歳 |
加賀姫の父・松木宗藤、智積で死去(70歳)。(出典『嚴助往年記』)
『巌助往年記』に、「永禄三年(1560年)五月、伊勢黄門圓寂 中将俄下国事有之」とある。
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安土桃山時代
1583年(天正11)
加賀姫68歳 |
当地は織田信雄(のぶかつ)の所領となる。
荘園制の崩壊。 |
安土桃山時代
1587年(天正15)
加賀姫72歳 |
智積御厨の当主・松木宗房(松木宗藤の養子)は、当地で残務整理を終えて上洛し、再び帰らなかった。
しかし、加賀姫は智積に残る。 |
1600年~幕末
(慶長5~慶応3)
1600年
加賀姫85歳 |
1594年(文禄3)、伊勢国で太閤検地が行われ、現・四日市桜地区は、佐倉村・櫻一色村・智積村の三村となって江戸時代を迎えた。
佐倉村 |
慶長5(1600)年から亀山藩領。元和元(1615)年頃から天領。
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。 |
櫻一色村 |
慶長5(1600)年から亀山藩領。慶長16(1611)年頃から神戸藩領。
寛永13(1636)年から津藩領となり幕末を迎えた。 |
智積村 |
慶長6(1601)年から桑名藩領。宝永7(1710)年から天領。正徳5(1715)年から天領と長島藩領との共有地。享保11(1726)年から有馬藩領と長島藩領との共有地。天保12(1841)年から天領と有馬藩領との共有地となり幕末を迎えた。 |
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江戸時代
1605年
(慶長10)
加賀姫90歳
幸田神社創建
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幸田神社の棟札
(出典「伊勢の智積郷」山田教雄著) |
加賀姫は、信仰していた京都伏見神社の神霊を勧請して「幸田神社」を建立。(出典・「伊勢の智積郷」山田教雄著)
- 幸田神社創立年・・・慶長10年(1605)8月12日
この時、加賀姫90歳。
(なお、加賀姫は99歳の長命であったと伝えられています)
- 「幸田神社の棟礼」は加賀姫の自筆であると伝えられています。
イナリ大明神
松木家
御九十女 花押
- 副署・・・慶長十年タツ八月十二日
大工 六郎兵衛
「棟礼(むなふだ、むねふだ)」とは、
寺社建築・民家等において、その建物の建築・修理等の記録として、建物の棟木(むねき)・梁(はり)など建物内部の高所に貼り付ける木の札。
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江戸時代
1667年(寛文7)
幸田神社
再建又は修理 |
「・・・・・椿岸神社所蔵の文書には、幸田神社棟札の一つに、寛文七年(1667)三月の日付をもつ、藤堂大学頭、伊賀少将高宙のものもあったと記し、無各社であってもこの神社に対する厚い崇敬の念がしのばれるのである。」と、『西勝精舎聞書抄』(山田教雄氏著)に記されています。
「考察」寛文七年三月付けの幸田神社棟礼の「藤堂大学頭、伊賀少将高宙」は誰か?
1667年(寛文7)当時の時代背景
- 荘園制度の解体後、江戸幕府が成立して旧来の「智積御厨」地域は、「智積村」と「佐倉村」と「櫻一色村」の三村となり、以後、村役人を通じて年貢と諸役を村全体の責任で納める「村請制度」が施行される。
- 三村のうち、佐倉村と櫻一色村は、寛永13年(1636年)から幕末まで「津藩領」となる。
- 津藩の初代藩主藤堂高虎は、慶長13年(1608)に、徳川家康から伊賀国一円と伊勢国(鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡)の領主に命ぜられ初代津藩主となる。
寛永7年(1630年)死去。
寛永7年(1630年)、高虎の長男・藤堂高次、二代津藩主となる。
官位・従四位下侍従大学頭、 左近衛少将、和泉守
- 寛永13年(1636年)、二代津藩主藤堂高次は父高虎が養子として育てた高吉(丹波秀長の三男(1579~1670年))を、伊賀国名張に2万石で移封した。
藤堂高吉は名張藤堂家の祖となる。
官位・従五位下 宮内正輔
【結論】
- 以上の考察から、「藤堂大学頭」は、藤堂高虎の長子の津藩主藤堂高次を指し、一方、伊賀少将高宙は、藤堂高虎の養子・名張藩主藤堂高吉と判明しました。
- 1667年(寛文7)3月当時、津藩領内の櫻村の「幸田神社」は、加賀姫が1605年(慶長10)に創建後約60年経過しており、おそらく建て替え又は修繕等が行われた際の棟札ではないかと推察されます。
- 公家のお姫さま・加賀姫が京の都を去り、鈴鹿山脈を越えて稲穂たなびくこの地へ来て、穏やかに暮らしつつ最後まで父に寄り添って孝養を尽くし、その最晩年には、人々の安寧と農作物の豊作を願って「幸田神社」を建立しました。 思慮深く気高い「加賀姫と幸田神社」の話は語り継がれ、近郷は言うに及ばず、両藩主の耳にも届いて、二枚の棟礼が残ったと推察されます。
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