はじめに
- 斧研(よきとぎ)の山中五郎さんは、日頃から四国の金刀比羅宮を深く信仰していたので、金刀比羅さんを近くにお祀(まつ)りしたいと願っていました。
四国の金刀比羅宮(通称・金毘羅さん)について
- 住所・・・香川県仲多度郡琴平町892-1
香川県の象頭山(ぞうずさん)という山の中腹にあります。海抜251メートル
参道は長い階段で有名です。本宮まで785段もあります。
- 本宮の御祭神
大物主神。崇徳天皇。
農業、殖産、医薬、海上守護の神として、古くから御神徳を仰がれています。
- 歴史
〇本宮社殿の創立は、上古に属するということ以外詳細不明。
〇長保3年(1001)、藤原實秋が一条天皇の勅を奉じて改築
〇元亀4年(1573)、改築
〇天正年間(1573〜1592)、長宗我部元親による再営
〇万治2年(1659)、高松城主・松平讃岐守頼重之による改築
〇明治11年(1878)、改築、現在の社殿となる。
斧研(よきとぎ)の山中吉五郎さんが建立された「金刀比羅宮」について
- 建立年: 1935年(昭和10)10月10日
- 祭神: 「金刀比羅宮」の大物主神と崇徳天皇
- 「金刀比羅宮」建立の願い
この社の付近は、樹木も少なく見晴らしが良くて、四国の金刀比羅宮の佇まいによく似ており、この地に崇敬している金刀比羅宮を勧請したいと日頃からの願いだったそうです。
- 昭和6年(1931)8月13日、工事に着工。
植木屋さんだった山中さんは、数人の弟子や青年団や村人の助けを得ながら、4年の歳月をかけて、昭和10年(1935)10月10日完成祝いをしたそうです。
- 「一の鳥居」は、後日、清水力・浜子さんご夫妻が奉納されたものです。
二基の石灯籠の歴史
- 斧研の山中吉五郎さんが「金刀比羅宮」を建立した丘陵地の麓には、明治時代後期まで「稲荷社」がありました。
- 「稲荷社」について (出典・『明治十七調 伊勢國三重郡櫻村地誌草稿』)
- 祭神・・・倉稲魂神(うかのみたまのかみ、宇迦之御魂神)伏見稲荷大社が主祭神
通称・稲荷神(お稲荷さん)として、古くから地域の人々が崇拝する神社でした。
- 創立年・・・不詳
- 鎮座地・・・字砂子谷
- 面積・・・・域内東西:13間、南北:30間、面積:367坪、約1213.2平方メートル。
境内に松樹あり。大木なし。
- 祭日・・・・毎年3月2日、9月30日
『明治十八年伊勢国三重郡櫻村地誌付属六千分之壱之図』に、字砂子谷と字斧研付近図に文字を挿入。
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- ところが、この「稲荷社」は、明治政府の「一町村一社の神社合祀」政策に沿って、当桜地区では1909年(明治42)に村内の全ての神社と山の神と共に、椿岸神社に合祀されました。
※神社合祀については「椿岸神社」のページの「神社合祀」をご参照ください。
- その「稲荷社」には、坊主尾の氏子一同が、明治39年12月に奉納した立派な石灯籠が二基ありました。
その石灯篭は、そのまま放置されていたので、昭和10年10月に「金刀比羅宮」が完成した際、改めてこの石灯籠を金刀比羅宮へ奉納されました。
明治後期まで存在した「人民共立小学校・高岡学校」
- 明治8年(1875)7月、「多宝山智積寺」を改築して「人民共立仮小学校」設立。
- 明治9年(1876)12月21日、伊勢暴動のため、「人民共立仮小学校」となっていた「多宝山智積寺」消失。
- この直後から、智積の少林山延福寺(薬師堂)を仮校舎とする。
- 明治12年(1879)7月、西垣内斧研に校舎を新築して「人民共立高岡学校」創立。
西垣内の児童の通学困難が解消されました。
(校舎面積144坪(476u)、教員1名、助手3名、生徒男子44人、女子44人)
- 明治14年(1881)、武佐学校新築。
面積300坪(992u)、教員1名、助手8名、生徒男子140人、女子72人
- 明治18年(1885)、「人民共立高岡学校」は「武佐学校」の分校となる。
- 明治20年(1887)、「武佐学校」を「櫻尋常小学校」と改める。
- 明治34年(1901)、「櫻尋常小学校」は、現・桜小学校の地(桜町1257)に新築移転
「高岡学校」は廃校となり、「櫻尋常小学校」一本化となる。
明治40年(1907)1月、櫻村字坊主尾御鎮座の「稲荷神社で奉納相撲」開催!
坊主尾稲荷神社 奉納書 伊勢濱松蔵 明治40年(1907)1月 (菰野町図書館郷土資料収蔵庫)
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【奉納書】
奉納稲荷神社(櫻村字坊主尾御鎮座)
右は當社御祭禮に付き 寄相撲献上致し度候 仍って四本柱並びに土俵掛りの一式之奉納致し候
然る上は角力萬代の末に至る迄 大切に相守る可き也
明治四十年一月
三都目代 伊勢浜松蔵
頭取総代 森勇仙太郎
世話人総代 一文字外市
行司総代 木村清太夫
登記人
区長 近藤千太郎
松井文次 石川勇太郎 辻竹松 辻與十郎 山中清太郎 大西卯吉
辻六右衛門 林万太郎
総氏子中宛 伊勢濱印 |
伊勢浜松蔵について
- 伊勢浜松蔵は天保14年9月14日、菰野の宮大工の家に生まれた。
若い頃から草相撲の力士であったが、伊勢国の相撲頭取伊勢浜の名跡を継ぎ、南は鈴鹿から、三重、朝明、員弁の相撲界を取り仕切った。
- 明治31年(1898)東京相撲協会の高砂浦五郎から「伊勢浜」目代の許状が授与された。
- 明治33年(1900)には、大阪相撲協会の取締三保関周蔵の名で「伊勢浜松蔵相撲目代免許」のお墨付きを受けた。
この東西相撲協会の公認目代職は、地方相撲協会では権威があって、祭礼の草相撲の開催にも、目代の名で土俵を築き、四本柱を立てることが許された。
- 明治40年(1907)10月・・・池底村(現・菰野町)の秋祭りの奉納相撲に頭取として若者門弟力士22名を従えて花相撲をしている。
この年は潤田村(現・菰野町)の祭礼、櫻村の稲荷神社の祭礼(明治40年1月)にも出場している。
伊勢浜松蔵は、明治41年(1908)9月死没。享年66歳であった。
(出典・『菰野古碑とその風土』佐々木一著)
ー完ー
(文責:永瀧洋子) |