桜の史跡NO.7
       
         
            (はちまんじんじゃ と やまのかみあと)
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"八幡神社" が椿岸神社に再合祀のご報告
令和2年(2020)2月 8日  
作成 桜郷土史研究会 鈴木健一
  1. 山上の「八幡神社」について
    祭神 誉田別天皇(ほむたわけ天皇・応神天皇)
    八幡神社の合・分祀について
     明治42年の明治政府の方針で、一村一社の「神社合祀令」により椿岸神社に合祀された。
     昭和22年(1947)に、有志の希望で椿岸神社より分祀し ”八幡神社” として再建、昭和58年(1983)老朽化のため社殿を再建してお守りしていた。
     令和元年(2019)6月6日に、山上の関係者が参列し川島宮司により ”御祭神” は椿岸神社への合祀祭が執り行われた。

  2. 椿岸神社への「再合祀」の理由
     山上の集落も、椿岸神社より祭神を昭和22年に分祀された当時に対して戸数の半減と少子高齢化により、今後引き続き維持・管理が困難による。

  3. 「史跡説明板」の内容変更について
      石段下の「八幡神社と山の神」説明板については、既に社殿が撤去されており更新せず簡易的に「油性ペイント」で八幡神社の文字の後に ”跡” を追記して対応。

    撤去された「八幡神社跡と山の神」の風景
         


    ( 石段下に建てられていた神域を表す”鳥居”も無く「史跡説明板」の内容訂正要 )


    ( 石段下には、「八幡神社」の鳥居を撤去のため切断された鳥居の柱跡のみ残っている )


    ( 社殿跡は、既に整地され社殿が建っていた時より広く感じられる )


    ( 桜町山上公会所西方向に見えた「八幡神社」の姿が消え、ブナ科の大樹のみが異様に目立つ )


    ( 八幡神社西側の”山の神”は、敷地の隅に寂しく残されている )


    ( 八幡神社前の石の「手水鉢」は、参拝者も無く役目を終えていた )


  4. 「八幡神社の社殿」と「鳥居」の処置について
    令和2年1月2日に椿岸神社で、「八幡神社」の覆屋(おおいや)の中にあった”拝殿”と柿葺(こけらぶき)の「本殿」は解体され「鳥居」と共に焚き上げられた。

                                              以上



八幡神社跡より遷座された”山の神”

2021ー08ー15  
桜郷土史研究会 鈴木健一
  •  八幡神社が椿岸神社へ遷座後も、敷地内に残されていた”山ノ神”の碑が山上公会所敷地内の「教尊法師之碑」の傍に遷座されたので報告する。
    (今年の春に、山上自治会長より八幡神社跡に残る”山ノ神”を山上公会所敷地内に移すと伺っていた)
    (遷座は、今年3月14日と桜町山上第一自治会長の奥村千津子様に確認した)

  • 1.山上公会所敷地に遷座された”山ノ神”碑
    (山上公会所敷地内に遷座された”山ノ神”の碑)

    (山上公会所敷地内の
    「教尊法師之碑」の左に遷座した”山ノ神”)

  • 2.「八幡神社」と「山ノ神」が祀られていた場所の現風景
    (八幡神社跡への上り口には、
    既に鳥居も無く、「八幡神社と山の神跡」の
    史跡説明板のみが建っている)

    (”山ノ神”の碑が祀られていた跡の風景)

    (八幡神社跡に残された”清水”
    <セイスイ:椿岸神社の中島宮司に読み方を
    確認>と彫られた大きな自然石の手水鉢)
    (花崗岩で大きさは、
    約幅120cm×高さ45cm×奥行60cm
    もある立派なもの)


「八幡神社」(四日市市桜町890 山上公会所の西)
 令和元年(2019年)6月6日、諸般の事情により椿岸神社へ再合祀されました。

 令和3年(2021年)3月14日、「山の神」は山上公会所敷地内の「教尊法師之碑」に向かって左側に遷座されました。

(「四日市公開型GIS」を基に加工・作成


 八幡神社(はちまんじんじゃ)の由緒
在りし日の「八幡神社」

(写真撮影:2000年5月13日)

山上公会所「教尊法師の碑」の西側の道路沿いに建つ”鳥居”をくぐって石段を登ると、「八幡神社」が南向きに鎮座していました。





「八幡神社」の由緒
  昔、山上一帯には桜の樹が多かったので「櫻岡」と呼ばれていました。
  山上地区の人々が遠い昔から崇敬する神社は、明治42年(1909年)の神社合祀以前まで「櫻岡社」と呼称されました。
  1. 櫻岡社・・・「明治42年(1909年)神社合祀」まで
             
    祭 神: 品陀和氣天皇(ほむたわけのすめらみこと)←『櫻村地誌』の表記による。
         応神天皇(15代天皇)のことです。
         (古墳時代。応神天皇は仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。次代は仁徳天皇)
     
    創立年: 不詳
    規 模: 東西・・・29間(52.7m)  南北・・・20間3尺(37.3m)
    面 積: 452坪(約1.494平方キロメートル)
    祭 日: 毎年8月15日

    境内社: 櫻岡社の境内には「稲荷社」も祀られていました。

    「神社合祀」(明治42年(1909))以前の「櫻岡社」の所在地
    「八幡神社跡と山の神」の説明板の冒頭に・・・「この八幡神社の東隣に452坪の境内を有する櫻岡神社があった」・・・と記しています。(「八幡神社跡と山の神」の説明板」へリンク
    すなわち「櫻岡社」は、現在の「山上公会所」を含む周辺地域に在ったと考えられます。 


    明治18年(1885年)作製の『明治十八年伊勢國三重郡櫻村地誌附属六千分壱之図』
    明治18年当時の「櫻岡社」と「山神社」の所在地。
    『明治十八年伊勢國三重郡櫻村地誌附属六千分壱之図』の一部分
    (櫻村地誌附属図に文字等を挿入。地図上の「字山上垣内(あざやまじょかいと)」の二個の印は、各々「櫻岡社」と「山神社」です)
    (加工作成責任者・eitaki)

     

  2. 「神社合祀」・・・当地では明治42年(1909)に実施完了

    「神社合祀」とは・・・一定地域内の複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させ、神社の数を減らし、残った神社の経営確立と威厳保持のためとされました。

    明治政府による神社合祀政策に従って、「櫻岡社」は境内社の「稲荷社」と、少し離れた場所に祀られていた「山神社」も含め、櫻村内の全ての神社共々「椿岸神社」に合祀されました。

    「椿岸神社」のページ内の「神社合祀」をご参照ください。


  3. 合祀された後も、山上の人々は「櫻岡社」の内社殿は残してあったので、「櫻岡社」の祭日には、幟(のぼり)を立て、屋形提灯を飾って昔を偲んでいたそうです。

  4. 敗戦後の昭和20年(1945)12月15日、「国家神道廃止令」によって信教の自由が確立されました。

  5. 昭和22年(1947)、山上の有志の希望で「八幡神社」として再建されました。 
     祭日: 1月1日と8月15日

  6. 昭和58年(1983年)、「八幡神社」は老朽化のために建替えられました。

  7. 令和元年(2019)6月6日、「八幡神社の御祭神」は「椿岸神社」へ再合祀されました。

  8. 令和3年(2021)3月14日、八幡神社跡の境内に鎮座していた「山の神」の碑は、「教尊法師の碑」の向かって左横へ遷座されました。  



 「山の神」・・・字山上垣内(あざやまじょうかいと)
 2021年3月14日以前の山上の「山の神」


(写真撮影:2000年5月13日)
  • 祭神: 八衢比古命(やちまたひこのみこと)
        八衢比売命(やちまたひめみこのみこと)
    (上記の二神は道祖神で、”往古より辻々に座して外から侵入してくる邪神を防ぎ、かつ疫病退散の神”として信じられています)
  • 祭日:毎年12月6日
  • なお、この「山の神」は昭和22年(1947)に「八幡神社」が再建された際、少し離れた所からこの境内に祀られました。
  • 2021年(令和3)3月14日、山上公会所敷地の「教尊法師の碑」の左側に遷座されました。

  ※「神社合祀」(明治42年(1909)以前の「山の神」の所在地
  • 『櫻村地誌』の記述によると、「櫻岡社」と「山の神」の距離間は10間(約18m)です。従って、現在の鎮座地の近辺だったようです。

山上の「山の神」の行事
  • 昔、「山の神」の当日には、各組の「宿(やど)」の床の間に「掛軸」が飾られ、お神酒や鏡餅が供えられて、無礼講の会食と歓談が夜の更けるまで続いたそうです。

  • 宿(やど)の床の間に掛ける「掛軸」とは、
    「八衢比古命(やちまたひこのみこと)・八衢比売命(やちまたひめみこのみこと)の二神が並んで墨書された”掛軸”のことです。
    この掛け軸を、当番の「宿(やど)」の床の間(又はその家の上座)に掛けて、お神酒とお鏡餅をお供えして「神迎え」をしました。

    「掛軸の由緒」については、「山之神の掛軸について」のページへどうぞ

  • 桜地区の山神様「10基」のうち、「7基」の祭神は「大山祇命(おおやまずみのみこと)」で、残る「3基」は、桜町南区の「西ノ平」と、桜町西区の「斧研(よきとぎ)「山上(やまじょ)は、上記の二神 「八衢比古命・八衢比売命」が祭神です。

  • 既にこの山の神行事も、戦前戦後の食糧事情や、社会情勢の大きな変化に伴い、現在では、組単位内の親睦を兼ねて料理屋で会食をするように変化してきました。

    桜町山上第一自治会2番組の「山の神祭事」のページをご参照ください

  • また、「山上」のうちでも”組”によってはそれさえも行われなくなり、「山の神」に対する素朴な信仰は徐々に忘れ去られようとしています。

  • なお、2005年の調査時には、桜地区内の桜町南区の「西ノ平」と、桜町西区の「斧研」では、既に「山の神行事」は何も継承されていません。それでも、山の神様に榊が供えられているのを時々見かけます。


一般的な「山の神」について
  • 「田の神」・「山の神」説
    昔から、農村では「春になると山から里に降って田の神となり、秋の収穫が終わると再度山に帰って山の神になる」と信じられ、田の神や山の神に変わる日(2月と10月)に山神祭を行う所が多かったと言われています。

  • 神々の出雲集合説
    10月は全国の神々が出雲に集まり、里の神が不在になるので10月を神無月といい、山の神が出雲へ出発される日、あるいは出雲からお帰りになる日に、山神祭をするという説もあります。

  • 収穫を喜ぶ
    農村で行われてきた年中行事は、すべて農耕生活を基盤として生まれ、例えば「田植」と「稲刈り」は農作業の「始まり」と「終り」で、元来神聖なものとされてきました。
    「山の神」もそのような農耕の節々の行事の一つとして、「山の神にその年の収穫を感謝しながら、季節のものを供え神霊の守護を祈る」という民間信仰から始まって、次第に農民自身の休養(骨休め)となり、年中行事の一つとなって受け継がれてきました。

    「山上の山神」の写真と情報は、「山の神」(桜地区の山の神総集編)にもあります


                 ― 終 ―
                                    (文責・永瀧洋子)
         
(参考文献:『明治十七年調伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』、『山の神と村の年中行事』桜郷土史研究会発行)  
2000年5月調査・掲載  2019年10月更新  2020年2月15日更新  2021年5月17日更新