桜の史跡NO.19
        
           (ひよどりがおかしらたきふどう)

          「桜の史跡説明版集R」   「桜の史跡地図」R 


説明板 と 鵯岡白滝不動への階段  

鵯岡白滝不動  (撮影:2010.10.16)



                                 (四日市公開型GISを加工作成・eitaki)



「不動明王」と「雨池」について

「不動明王の石像」発見・・・(小林寛一さんの話)
  1. 1931年(昭和6)、この近くの東の谷間で古い「不動明王の石像」が発見されました。

  2. 小林寛一さんは、子どもの頃、村の青年団などがこの方面へお供え物を担ぎ上げてお祈りするのを見たことがあり、“御不動様に雨乞い”をしていたのだろう、と回想されました。
    また、「”不動様の石像”は、ここの雨池が造られた200年位昔に、”雨池(あまいけ)の守り仏”として祭祀された」と推察されました。

  3. そこで、小林寛一さんの御父様が発起人となり、近隣の人々と相談して、小林さんの所有地の此処に”祠(ほこら)”を建てお祀りし、「雨池」から谷に注ぐ流れに因んで「白滝不動」と名付けられました。
江戸時代、一生吹山に「雨池(あまいけ)が築造された
  • 雨池(あまいけ)の正確な築造年代は不明ですが、江戸時代の享保年間(1716〜41年)の初頭から存在したと考えられます。
    • 1733年(享保18)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』に描かれている「池」が「雨池」であると推定される。
    • 「雨池」は、智積村の人々の労働力を結集して、一生吹山の谷間の”沢水(さわみず)”が溜まりやすい所に「溜池(ためいけ)が築造され、「雨池」の下段地帯を「棚田」として開墾されました。
      雨池の灌漑用水は、棚田を灌水した後、一生吹山の山裾の
      高低差を利用して張り巡らされた用水路を通って、山裾に広がる智積村の広大な水田を灌漑しました。(絵図等は、「桜の史跡NO.18 雨池用水と大師堂」のページにあります)

昔の風習
  1. 当地には、農業用水を確保するための「溜池」工事完了後、「永遠に水を湛(たた)える池」であるようにと願って、何らかの神仏を祭祀して祈願する風習がありました。
    これは、「弁天様と山の神」の“弁天池と弁天様” や 「雨池用水と大師堂」の「2.大師堂」の「弘法大師と掘り抜き井戸」の例に見られるように、「苦労して築き上げた”溜池の水”や”掘り抜き井戸”の”水”が永久に枯れないように!」と、往時の人々の切なる願望の表われです。

  2. 18世紀前期に「雨池」が築造された際にも、「雨池」の傍に「不動明王像」が”雨池の守り仏”として安置され、以後永年に亘って「雨池」の受益者(智積村の人々)によって祭祀は続けられていたことが、村人の話から解ります。

1965年(昭和40年)以降
  • 桜地区では、1965年(昭和40)以降、順次、農地の土地改良整備事業が進められ、かつて両溜池の恩恵を受けていた一生吹山系の水田にも灌漑用水が完備されました。
    その結果、ここの「雨池」も昔の姿を静かに留めるだけで、灌漑用水としての役割は終了しています。


(ひよどり)
米社会・米経済中心の江戸時代、各藩は新田開発を奨励し、水利が悪い所には「溜池」を造って増産をはかりました。 
智積村の人々も生活の質の向上を目指し、沢水の溜まり易い今の「雨池」の地を選び、溜池の受益者の労働力を結集して、池の水が漏れないように内側を粘土質の土で塗り固めて突き固めました。また池の水は木製の樋管で臨機応変に放水出来るよう工夫しました。池の堤防にも粘土を張り付け、崩壊しない様にしっかりと突き固め踏み固めしました。そして完成後は、池の排水口の傍に不動明王様を安置して、年々歳々、豊富な水と収穫を祈願したことでしょう。
・・・静かに境内に佇み、往時を偲び、郷土の先人の逞しい生き様に想いを寄せてみてください。




雨池 

“白滝不動”の名のもとになった滝  

(「鵯岡白滝不動」から下り坂道を歩くと、直ぐ右手に「雨池」が見え、左手からは水音が聞こえます。そこの崖を少し降りて撮影しました)(撮影:2010.02..13)


小林さんが不動明王様の近辺に丹精込めて育てた千本の梅林は絶景です。