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祭神: 天照大神、猿田彦大神、阿弥陀如来、七福神など50数体。 |
建立者: 材木商・中村正一様
- 材木商であった中村正一様は、晩年、神仏への信仰を深め、1976年(昭和51)から5年の歳月をかけて50数体の神仏を建立しました。
- 「宝木院」の名称は、豊かな自然が残る桜の地を愛し、自然の命である樹木をいとおしみ大切にした中村正一様に因んだものです。
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桜村の戦前 〜 昭和の戦争 〜 好景気到来 〜 祈り |
- 桜村の戦前
- 1929年(昭和4)10月、アメリカではじまった恐慌は世界に波及しました。
この恐慌の影響が最も大きかったのは農村でした。
大正〜昭和期の三重県の農家の副業の中心は養蚕業でしたが、欧米への輸出が減ったため、生産量114%に増えたのに、価格が32%へ低下しました。(『三重県の歴史』山川出版社)
- 大正時代から昭和初期まで、桜村には養蚕農家が多く、原料の繭の入手が容易なことから、「製糸工場」が9軒も設立され好景気に沸いていました。しかし、この世界恐慌の影響を受け、1935年(昭和10)頃までに全て廃業となりました。(出典・『ふるさとの生活誌 ー大正時代を中心にー』)
昭和の戦争
- 1931年(昭和6)の満州事変に始まり、1945年(昭和20)の太平洋戦争終戦までの15年間はずっと戦争が続いた暗い時代でした。
この時期の桜村の様相は、下記のページからも伺うことができます。
終戦
- 1945年(昭和20)8月6日に広島、続いて8月9日長崎に原子爆弾が投下され、ここに至って、日本の指導者は降伏が避けられないことを知ります。
8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔書(しょうしょ)」がラジオ放送(玉音放送)され、桜村の人々は敗戦を知りました。
- 桜村の戦死兵の御霊は、「椿岸神社」拝殿に向かって左手の「忠魂殿」に祭祀されています。
- GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下
- 敗戦国となった日本は、アメリカ合衆国を主とする連合国軍(GHQ)の占領下におかれました。
GHQは、軍国日本の復活を防ぐため、非軍事化・民主化政策を進めました。
当時、桜村の大半は農業従事者だったので、ここでは特に、GHQと日本政府の指導者が協力して推進した「農地改革」について少し取り上げます。
【農地改革の目的】
- 農地を所有しながら自らは耕作をしない「地主」と、土地を借りる代わりに農作物の大半を地主に収める「小作農」との格差を縮めるためでした。
- 占領軍が指令した第二次農地改革は、不在地主の土地はすべて買収、在村地主の土地も所有限度一町歩、自作地の所有は三町歩という徹底したものでした。こうして農地改革が進められ、多くの自作農が生まれました。
- しかし、改革の目的が地主小作関係の解消にあって、経営規模の拡大ではなかったので、零細農家が大部分で、農業だけでは生計が立たず、兼業農家が増加しました。
神武景気・岩戸景気
- やがて日本は、1955年〜57年(昭和30〜32)に神武景気(じんむけいき)、1959年〜61年(昭和34〜36)の岩戸景気(いわとけいき)という二つの好況期で日本の経済成長は著しく、それが建設需要となって建設業界は躍進し、建設ラッシュともいうべき新築激増時代が到来しました。
【註】
- 神武景気・・・1955〜57年頃の好景気を指す。日本の初代天皇神武天皇の即位以来、最高の好景気という意味。
- 岩戸景気・・・1959〜61年までの好景気を指す。神武景気を上回るところから、天照大神の天岩戸以来という意味でつけられた。
- 1959年(昭和34)9月26日、伊勢湾台風の襲来
台風15号(伊勢湾台風)の通過が満潮時と重なったため、伊勢湾最奥の沿岸部に高潮が押し寄せ、人的被害、家屋など被害は甚大でした。
上記1.2.の状況下、材木商を営む中村正一様の本領は遺憾なく発揮されたことと拝察します。
祈り
- 戦中戦後を仕事一筋に逞しく生きた中村正一様は、晩年、事業をご子息に譲り、その後は各地の神仏を拝観する旅に出られました。
旅の先々で幾多の神仏に祈りを捧げる日々を経て、やがて「材木商」の仕事を大過無く続けることができたのは、ひとえに神仏のご加護の賜物であったと深く会得され、溢れ出る神仏への感謝の念が、50数体の神仏の石像と宝木院七福寺の建立に繋がりました。
― 完 ー
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