壬申の乱と川原寺式軒丸瓦の関連を指摘した学者たち < 智積廃寺跡桜郷土史研究会(HOME)


【参考】 「壬申の乱と白鳳寺院」の関係を指摘した学者
1954年(昭和29)5月 石田茂作博士
「美濃弥勒寺の発掘」『ミュージアム』で、「壬申の乱の功績者とその造寺に対する天武朝の積極的援助関係を想定」されている。(出典:『飛鳥白鳳の古瓦』奈良国立博物館編)
1970年(昭和45) 高橋美久二氏
「山城国葛野・乙訓両郡の古瓦の様相」『史想』第15号で、「葛野・乙訓両郡は高句麗系の古瓦、愛宕・宇治両郡は紀寺式の古瓦、久世・綴喜・相楽三郡は川原寺式の古瓦と、山城国では郡単位で三系古瓦の分布圏が認められるが、その原因を寺院建立氏族の壬申の乱における動向と対比して考察」されている。(出典:『飛鳥白鳳の古瓦』奈良国立博物館編)
1971年(昭和46)11月 稲垣晋也氏
「古代の瓦」『日本の美術第66号』で、「川原寺式は、先の山田寺式とともに、旧様式を圧倒して各地に波及したが、とき、あたかも壬申の乱(672)をへた天武朝にあたり、積極的な仏教振興政策に即応した、盛んな寺院造営活動が開始されていた。壬申の乱に功多き南山城地方から伊勢・美濃地方にかけて特に川原寺式の顕著な分布を示すのは、天武朝のこの地方に対する優遇策のあらわれとも解される」と発表されている。
1973年(昭和48)8月 八賀晋氏
「地方寺院の成立と歴史的背景」『考古学研究(第20巻第一号)』で、「川原寺式の瓦を持つ寺院跡が、とくに畿内・近江などとともに集中的に美濃に分布するのは、壬申の乱に際し、大海人皇子(後の天武天皇)に加担した地方豪族が、乱後に論功行賞として、天武朝廷から経済的・技術的な援助を受けて造寺を成した結果である」と発表されている。 具体的な考古学の事象を文献史学と共に扱った手法は新鮮で、当時の考古学ブームと相まって広く支持された。

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