桜町西区のマンボについて
              ・・・茨尾のマンボの保存を考える・・・

2008年9月3日掲載
背景画像:残雪に映える桜町西区の水田(2008/02/25撮影


目 次(各項目にリンクしています)
  1.水不足と闘った先人たち
  2.マンボの基礎知識
  3.茨尾(いばらお)のマンボ
  4.大井(おおゆ、農業用水路のマンボ
  5.弁天池(大谷池)のマンボ
  6.西区の湧井戸(わきいど)
  7.茨尾のマンボに思う



1.水不足と闘った先人たち

  •  三重用水から農業用水を受給する以前、三重県北勢地方の農耕地帯の水田は、河川、溜池、湧水、マンボ(マブ)などの水源に依存し、気候、雨量、地形、地質など自然条件に適合した方法で建設された灌漑施設から、取水や導水してそれぞれの水田へ配水していました。しかし、いずれの水源も総じて水量が乏しく、空梅雨の年ともなれば、水量や利水や排水などをめぐって上流や下流など地域的な対立が起こり、農民は計り知れない苦労に見舞われるのが常でした。

     桜地区もその例外ではなく、水の確保に奔走した先人は、「武佐(むさ)川」(智積養水(ちしゃくようすい))、「寺井川」、「山上井(やまじょうゆ)」などの農業用水路を網目のように張り巡らせ、更に丘陵地の谷間の窪地に「雨池(あまいけ)」、「池の溜(いけのため)(大溜(おおため))」、「弁天池(大谷池)」などの溜池(貯水池)を築いて水源としました。 そのほかにも矢合川上流に井堰をつくり“マンボ”に導水し、そこから長大な用水路「大井(おおゆ)」を築いて広範囲の水田を灌漑する施設も築造しました。

     (下記の絵図は『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図(明治18年10月)』を基に作成したものです。この地図と下段の灌漑施設概略表を合わせてご覧頂きますと、江戸中期から明治18年頃迄の桜地区の耕作地帯と灌漑施設が概略お分かりいただけます)

江戸中期〜明治18年、桜地区内の主な灌漑施設地図

寺井川、武佐川、山上井、大井は幹線用水路のみ表示、また各溜池からの用水路も省略されている。
(『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図』を基に作成 
加工責任・永瀧


江戸中期〜明治18年、桜地区の主な灌漑施設概略表
名称 築造年 水源及び築造事情 長さ又は面積 受益田
智積村 寺井川
(てらいがわ)
正徳元年
(1711)
[注1]
水源:菰野町神森の蟹池
四日市陣屋代官石原清左衛門正利が官費で樋管(三十三間筒)を取替えた
16町21間4尺2寸
(約1.78km)
45町6畝11歩
(約44.7ha)
武佐川
(むさがわ)
字武佐で寺井川より分流
18町25間4尺2寸(約2km
不詳
新雨池
文政元年
(1818)
新雨池は耕作地の増加に伴う灌漑力補強のため新造された。両雨池で一生吹山の西側の田地と北麓の水田一帯を灌漑する 342坪(約1130u) 不詳
下雨池
享保18年(1733)以前
[注2]
800坪(約2640u) 6町7反1畝5歩
(約6.65ha)
桜村 山上井
(やまじょうゆ)
不詳 水源:金渓川北岸の湧水池
(現在の水源は金渓川)
13町48間1尺2寸(約1.51km) 不詳
大井
(おおゆ)
不詳 水源:矢合川
(当時は今井川と呼称)
27町11間3尺(約2.97km)
マンボの全長62間(約112m)を含む
不詳
池の溜
(大溜)
文政元年
(1818)
官民(津藩と佐倉村民)協同作業 面積2282坪(7544u)
耕地6反7畝27歩(6700u)を溜池とした
字天王平の畑地5町歩(5ha)を水田化
弁天池
(大谷池)
嘉永2年
(1849)
領主(津藩)に出願して2年余にして落成 1010坪(約3340u) 不詳
(『明治17年調伊勢国三重郡智積村地誌』と『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』から作表)

[注1] 寺井川と武佐川は金渓川の埋樋(三十三間筒)(桜の史跡NO.11にリンク)を越して、智積村に導水し「字武佐」で分流した。
正徳元年(1711)は埋樋を伏せ換えた文献初見の年で、初期築造年は不詳。
なお、天明6年(1786)以降の作とされる『智積村絵図』には、武佐川は「字武佐」で寺井川と分流せず、少し下流の「字おりど」で分流する。したがって明治18年のこの地図とは水路状況がやや異なるが、武佐川の築造年も正徳元年とした。
[注2] 下雨池は「桜の史跡:鵯岡白滝不動」の直ぐ東の「雨池」のこと。この雨池は享保18年(1733)作『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』と、天明6年(1786)以後の作『智積村絵図』に「池」が描かれていることから享保18年(1773)以前の築造年とした。江戸中期に幕府の米不足対策の方針に沿って築造されたものと推定される。

  1. 上表で明らかなように、桜地区の主な灌漑施設の多くは江戸時代中期から幕末にかけて建設されました。

  2. 明治中期以降になると、西区において更なる灌漑施設の強化が図られ、人々は数箇所にマンボを掘削し、続いて昭和初期には、水田の所々に湧井戸(わきいど、自噴井、掘抜井戸)を掘って地下水を汲み上げるなど、水を獲得するためコツコツと努力を積み重ねました。
    しかし、こうした必死の努力にもかかわらず、ひとたび干害が当地を襲うと、たちまち深刻な水不足となり、人々の緊張感は極限に達し、村内は暗い影に覆(おお)い尽くされるのが常でした。

  3. 昭和40年代初頭、農業生産基盤の整備事業として土地改良事業が始まり、圃場(ほじょう)整備事業(耕地区画の整備、用排水路の整備など)が実施され、そして平成4年、三重用水から農業用水の安定供給が開始され、ついに桜地区の水不足は解消されたのでした。

  4. こうして、田んぼに設置されたポンプのバルブをひねれば簡単に水が出て来る世の中となり、「米作りもえらい楽になって、後期高齢者(2008年4月から始まった75歳以上の高齢者を対象とする後期高齢者医療保健制度に因む語)の自分でもバルブをひねるぐらいはできるわなァ。」と、深刻だった水の話題も今では笑って話せるようになりました。
     (但し、智積では現在も菰野町神森の蟹池を水源とする智積養水系水路を利用し、桜一色では金渓川を水源とする山上井を利用しており、三重用水から水の供給を受けていない)
     (なお、山上井の水源は元来、金渓川(かんだにがわ)北岸の湧水池であったが枯渇したため、昭和末期頃から金渓川の水を利用している)

    • 田んぼの隅に設置された給水ポンプの外観 左写真の内観
      写真撮影:2009年6月19日)

  5. 農業の生産性向上と農作業の省力化が進んで、豊かで住み良い“ふるさと桜地区”に生まれ変わって以来16年しか経っていませんが、水不足と闘った先人の歴史として、智積町の名水百選に選定された智積養水が突出して脚光を浴びてはいるものの、その他の苦難の農業史は早くも忘れ去られようとしています。
  • 本稿の趣旨
    桜町西区の灌漑施設を「マンボ」の観点から取り上げ、特に「茨尾(いばらお)のマンボ」にクローズアップします。
    理 由
    • 「茨尾のマンボ」は、農民二人が自力で開削という特異な来歴を有し、桜地区内で唯一現存するマンボであり、しかもその機能を保持しながら、利用されずに放棄されています。
    • 更には、西区在住の若い世代で“マンボ”という言葉さえ知らない人が増えてきています。
    ゆえに、こうした事態を憂慮し、「茨尾マンボの保護と後世に語り継ぐことの重要性」を知っていただきたく、桜町西区のマンボについて取り上げました。



2.マンボの基礎知識
    
 桜町西区のマンボについて述べる前に、先ずマンボの基礎知識を確認します。
  • マンボとは、水田灌漑の水源となる河川、伏流水、浅層地下水を集水したり導水したりするための素掘りの「地下水路」を指し、三重県北部の鈴鹿山脈東麓のいなべ市、菰野町、四日市市、鈴鹿市、亀山市に多く分布します。 マンボとは不思議な語ですが、古文書では間歩、間風、間分、間歩、間府などの漢字で記され、地域によって「マンボ」とか「マブ」と呼ばれています。 広辞苑で「まぶ」を調べると、「鉱山の穴、坑道、坑道に入ること」とあります。


(1)マンボの起源と社会的浸透の経緯

  •  マンボの起源は、いなべ市北勢町の旧治田(はった)村にあった治田鉱山(慶長18年(1613)頃〜明治初期)の掘削技術をもった坑夫が、鉱山の排水路をつくった技術を応用して掘った農業用の地下水路を「マンボ」と呼び、一般に知られるようになったとする説が有力です。
    治田銀銅山の所在地
    治田銅山の所在地
    (出典:『伊勢治田銀銅山の今昔』)

     徳川幕府が各藩の窮迫した財政立て直しと人口増加による食糧不足対策として、新田開発を奨励した享保の改革期(1716〜45年)や、天明の大飢饉(1783〜89年)がきっかけとなったと考えられ、この頃治田鉱山の掘削技術を用いて、鈴鹿山脈東麓の水源を持たず天水に依存していた地域で盛んに掘られています。

  •  また、明治維新後にもマンボ掘りのラッシュを迎え、明治6年(1873)の地租改正法によって、自作農と地主は土地所有者となり、そのため土地改良への意欲が増進して、畑作物よりも値の良い米作りを志向し、畑地を水田化するためにマンボが掘削されました。

  •  そのほかに、明治維新で武士が帰農し、河川などから水を得られない不便な荒地や未開地を開墾し、マンボを掘って水を引き水田化した例もあります。



(2)マンボの規模と構造
  • マンボの規模
    トンネル形式で人が1人で横穴を掘り進むことから、幅は80cm、高さは120cm前後の大きさが標準です。 掘削に伴う土砂はマンボ口から排出しますが、マンボの長さが数十メートル以上になると、日穴(ひあな)竪穴(たてあな)が数箇所に掘られ、そこから土砂を排除します。

    マンボの構造・・・大きく二つに分けられますが、集水タイプは様々です
    A導水型マンボ
    水源地から山や台地を越えて水の無い水田に引水する場合、障害となっている山にトンネル状のマンボを掘って導水するタイで、取水口と取出し口の二つの開口部がある。
    (溜池から水田に引水するのに台地などの障害がある場合にもこのタイが用いられる)

    A導水型マンボ
    A導水型マンボ
    (出典:『四日市市史第五巻』)

    B地下水集水型マンボ
    山の側面を横堀して浅層地下水や地表からの浸透水をマンボで集水するタイで、開口部は一つしかない。河川の伏流水を河川底からマンボで集水する場合もこれに該当する。

    B 地下水集水型マンボ
    B地下水集水型マンボ
    (出典:『四日市市史第五巻』)




3.茨尾(いばらお)のマンボ
 (1)茨尾のマンボの位置、タイプ、規模
  • 位置 茨尾橋を渡ってすぐの墓場の南東背後
    タイプ 茨尾山の字西馬谷(あざにしまたに)から流れる馬谷川(またにがわ)を堰き止め、取水口からトンネル状のマンボ約50メートルを通った先の開口部へ流れ出た水は、川と反対側の水田を灌漑する導水型マンボ・・・2マンボの基礎知識「A導水型マンボ」へリンク
    規模 マンボの全長 約50m
    マンボの受益田面積 4反(約4,000u)
    マンボの所有者 茨尾山の東側の水田の所有者2人。
    (所有者は現在までに2〜3回変わった)


 (2)茨尾マンボの掘削の経緯と掘削方法
  • 掘削の経緯
    茨尾山の東側の田を持つ2軒の農家は、水田に十分な水が得られず毎年たいへん苦労していましたが、ついに明治20年代のある冬の農閑期に、自分達だけの力でマンボを掘り、馬谷川(またにがわ)の水を導水して田を灌漑しようと決断をしました。

  • 開削方法
    1. 水田側に水を取り出す開口部の地点を決める。
    2. 水源の馬谷川の取水口として、水田側の開口部との高低差の少ない地点を選ぶ。
    3. 水田側の開口部から水源に向かって、人が座って掘削作業ができる最低限の大きさでトンネル状に掘り進む。 
      開口部は崩れやすいので材木か石などで補強する。
    4. 掘削するための道具はツルハシのような唐鍬(トグワ)など手持ちの農具を使う。
    5. 掘り出した土砂は木箱に入れて、二本の竹の上を滑らせてトンネルの外・開口部から外へ順次放出する。
      • これら全工程に職人の手は一切借りず、2軒の家族で力を合わせて工事を完成させたと伝えられています。
      • 昭和40年前後、マンボの取水口と出口の崩れ防止のためヒューム管(径60cm)を埋設しました。
      • 昭和53年、馬谷川護岸工事の際、マンボ取水口のすぐ下(しも)にコンクリート井堰を築造しました。

      • 茨尾マンボ開口部(水田側)  (写真撮影:2008/03/31)
        茨尾マンボ開口部(水田側)
        現在、開口部はヒューム管で土砂崩れ対策が施されている。
        雑木や竹に覆われ、数年後には埋もれるリスクがあり存続が危惧される。

        上記マンボ開口部の内観  (写真撮影:2008/03/31)
        茨尾マンボ内部
        手前はヒューム管、その奥は手掘りの痕跡が顕著なトンネル部分。

        茨尾マンボ取水口(馬谷川側)   (写真撮影:2008/03/31)
        茨尾マンボ取水口(馬谷川側)
        取水口はヒューム管で補強されている。
        手前は井堰。必要時に鉄板をはめ込み、水位を上げてマンボに川水を流す。
 (3)茨尾マンボ受益田の現状
  • 西区では昭和57年以降、農業の近代化と生産の拡大を図るための圃場(ほじょう)整備事業が順次施工され、また平成4年には三重用水の農業用水路が敷設されました。その結果、誰もが安定した供給水を受けられるようになり、「マンボ」の必要性は薄れました。
    しかし、当マンボを掘削した子孫の2軒は、周囲の変化に追従せず、継続して「マンボ」で水田を灌漑する道を選び、三重用水の配水を受けないと決断しました。
    その背景には、昭和60年前後から(いのしし)や猿による稲作被害の増大後継者不足農業従事者の高齢化等々深刻な問題を抱え、結局、稲作経営に将来の展望が持てず、現状維持という苦渋の選択に甘んじなければならなかったのです。

    • 現在、マンボの出口に近い田は市内の他地区の人に売却され耕作されず荒地となっております。
    • もう一方の田には檜が植えられた状態となっています
       
 (4)マンボの思い出(西区斧研の年配者の65年以上前の話。2008年8月現在
  • 戦前、自分が子供だった頃、田んぼ側のマンボの口から潜って、馬谷川の取水口まで這って行く遊びをしました。中は真っ暗だったので、夢中で遠くの光が差し込む方向を目指して急いだけど、出口までは随分長く感じて、結構スリルのある遊びでした。

    危険注意!
     茨尾マンボは一見堅固に見えますが、安全性は保障の限りではありません。
     危険ですから、決して真似をして遊ばないで下さい。



4.大井
(おおゆ)(農業用水路)のマンボ
   大井のマンボの位置、タイプ、起源、および現状について
  •  位置 ミルクロードが矢合川に架かる桜西橋(桜中学校の南)から西へ約600メートルの字南平子(あざみなみひらこ)と字三反田の境界の矢合川北岸にあった。
     タイプ

     と

     規模
    矢合川北岸の微高地にトンネル状のマンボ約112メートル(62間)を掘り、そこから一段低地の水田へ矢合川の水を流す導水型マンボである。
     (2マンボの基礎知識「A導水型マンボ」へリンク)
    往時、大井(おおゆ)は、全長2.97kmの桜村で一番長大な灌漑用水路でした。
    「大井」・・・矢合川に築いた「井堰」から分水された水は、トンネル状の「マンボ(長さ112m)」へ流れ入り、112メートル先で開渠(かいきょ)します。つまり、上部を開け放した普通の農業用水路になり、広範囲の地域を灌漑する用水路で、斧研(よきとぎ)の東南の水田一帯と、桜中学校の北から東一帯、桜小学校の周辺から山上丘陵と矢合川に挟まれた水田一帯を灌漑する。
     起源 不明。
    享保18年(1733)作成の『佐倉村・桜一色村・智積村山野論立会絵図写』には、矢合川北岸の桜町西から桜町南の県道平尾茶屋線までの広範囲にわたる田地化が確認でるものの、大井やマンボは描かれていない。
    明治18年(1885)作成の『三重郡桜村地誌付属六千万分一之図』には、マンボも大井も記載されている。
    従って、この152年間に、この灌漑施設は作成されたと考えるのが妥当と思われます。
     現状 昭和57年(1982)、当地で実施された圃場整備事業によって、大井用水路とマンボは消失した。




5.弁天池(大谷池)のマンボ

 (1)弁天池の位置、タイプ、規模について
  • 位置 桜町西区地内で建設中の巡見街道(国道306号)のバイパスと坊主尾道の交差点から、北北西に約350メートルの字大谷の山地(標高約95m)にある。
    現在は、株式会社グレイスヒルズカントリー倶楽部ゴルフ場内にほぼ原型を留めて存在することが航空写真から確認できる。
    マンボは、この弁天池の東南東に掘削されていた
    タイプ 弁天池のマンボは、標高約95mに築かれた弁天池の水を、下段の台地・字乾谷(あざいんだに)の標高約85〜70mの水田を、灌漑するために掘られた導水型マンボです。
    2マンボの基礎知識−A導水型マンボへリンク。
    マンボは弁天池の東南東から取水された。昭和41年、土地改良事業以前の弁天池の受益田(昭和41年作製航空測量地図による)で確認できる。
    また、当地の受益者の証言によると、マンボの開口部には、設置年代は不詳であるが、径60cmのヒューム管が埋められていたそうである。
    規模 弁天池の規模 東西:95m、南北:72m、面積:3,339u(1,010坪)
    マンボの長さ 約50メートル
    受益面積 受益地は、弁天池の下段の台地から坊主尾道(県道平尾桜町西線)までの台地一帯。
    昭和40年代の受益面積は約2町歩(約2ha)。それ以前については不明。
    現状 当マンボの開口部と弁天池は、(株)グレイスヒルズカントリー倶楽部ゴルフ場に売却され、弁天池は残されたが、マンボは危険防止のため削平された。

弁天池の位置図
弁天池の位置図

昭和41年、土地改良事業以前の弁天池の受益田
(弁天池の間近から坊主尾道まで受益田が広がっていた)
弁天池受益田(昭和41年)
旧版四日市・四日市坊主尾 航空測量地図』(製作:昭和41年8月四日市市役所)を基に作成

 (2)弁天池の歴史
  • 「弁天池は嘉永2年(1849)の春、溜池の建設を津藩に願い出て、同年8月より着手、2年余の歳月をかけて工事は完成した。
  • その際、出役官吏の津藩農司:高橋省五郎が、「池の守り神として厳島神社の主神を祀るよう命じた」と、『明治十七年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』は記しています。
    (弁天池の名の由来:厳島神社の主神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、古事記・日本書紀に登場する水の神ですが、後に仏教の弁才天と習合。このため通称弁天池と呼ばれる)

    • 『明治十七年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』には、弁天池のマンボについての記述はありません。
       今回、弁天池の近くに永く居住されている方に、聞き取り調査にご協力頂いて判明しました。
       『同桜村地誌』には、弁天池の建設は村民が津藩に出願したと記されています。
       しかし、完成までに2年余の歳月を要した大工事であったことから、この時代の常として、津藩の主導によって、測量の専門家や必要な資材が投入され、一方、農民は膨大な労力と時間を投入。互いに協力し合って溜池が掘られ、その池の下段の台地もこの期間に開墾されたと考えられます。
       しかし、「弁天池」の水を「下段の台地」へ流すには、築造した堤防を破壊しないよう最善の注意を払いながら「A導水型マンボ」を掘削する必要があったと考えられます。
       そのために、恐らくマンボの掘削は、津藩に雇われた治田鉱山技師と農民の協同作業ではなかったかと考えられますが、これも推測の域を出ません。
       こうして大変な苦労をした弁天池受益者は、下記に示すように、以後数年間の年貢免除の恩恵を受けたと考えられます。
      参考:
       江戸時代、幕府天領の代官や諸藩が、窮迫した財政立て直しと人口増加による食糧不足の対策として、新田開発を積極的に奨励した。 
       新田開発の主導側は、農民に対して開墾に必要な資材を提供し、農民は労力を提供して、新田開発後の数年間は年貢が免除される「鍬下(くわした)年期」が保障された。

  (3)弁天池のマンボ と 用水路のユザライ(ゆ浚(ざら)い)
  • 「弁天池」は、江戸末期に2年余の歳月をかけて築造されましたが、残念な事に灌漑用としての水量は普段でも不足気味で、空梅雨ともなると人々は大変苦労しました。
    そのため溜池の水をそれぞれの田に効率よく流水させる手段として、用水路の掃除・ユザライ(ゆ浚い)は必須作業でした。

    • 下記は、平成3年頃までの話ですが、限られた水をどの水田にも平等に分けるため、如何に水の管理が厳重であったか証明する貴重な証言です。
       私たちは毎年6月17日か18日のいずれか日を決め、弁天池受益田の所有者全員(11軒)が集まり、デアイ(出合い)と当時は言っていましたが、つまり共同作業でユザライをしました。
      水路を掃除しながら水漏れや不備が無いか、あれば補修して、一日がかりでくまなく点検し、マンボの出口も入念に掃除しました。(但し、マンボの中に入って掃除することはなかった)
       また当地域では、長年皆が麦を耕作していたので、毎年5月中に麦の刈り取りを終え、6月17日か18日にユザライをして、6月20日に一斉に田植えをするのが決まりでした。

  (4)現状
  1. 弁天池のある字大谷とその周辺の山間部は、平成初期に、グレイスヒルズカントリー倶楽部株式会社へ売却が始まり、平成11年ゴルフ場として生まれ変わっています。
  2. また同じ頃、巡見街道(国道306号)のバイパス工事用地として弁天池受益田の大半は買収されました。
  3. 江戸後期に標高85mから70mほどの台地を水田化するため、溜池とマンボを築き、以後念入りに用水路の補修点検を繰り返して約150年、現在残った水田は荒地も入れて約5反(約5,000u)で、平成4年以降三重用水の受給地となっています。(2008年夏、聞き取り調査時)

  (5)その他にも西区には2〜3箇所にマンボが在った!
  • 明治時代後期に掘られ、大正時代末期〜昭和初期まで存在したマンボがありました。所在した場所は、坊主尾道に沿って小山を背景にして立ち並ぶ家の裏側で、山の南斜面に2〜3箇所ありました。
  • タイ・・・(2マンボの基礎知識−B地下水集水型マンボ へリンク)
           但し、日穴は無いタイ
  • 用途は、農業用水並びに日常生活用水として使用されていました。
  • しかし、山から浸み出す水によって大正後期から昭和初期にかけて次々と入り口が崩れて埋まり、今では形跡を残していません。



6.西区の湧井戸(わきいど)(掘抜井戸)
 
  1. 西区には水田や住宅地の敷地内にも湧井戸(わきいど)が散在し、常時きれいな水が溢れ出ています。 
    これは鈴鹿山脈の伏流水を汲み上げる井戸で、西区では湧井戸と呼ばれ、昭和初期から10年代にかけて盛んにつくられました。
     
  2. この湧井戸は灌漑用ばかりでなく、西区に上水道が敷設される昭和53年まで、住宅敷地内の鬼門(北東)や裏鬼門(南西)を避けて南東の方角に掘られ、普通の井戸と同様に人々の日常生活を支え続けました。
  3. 湧井戸は地中約65〜100メートルもの深さから水を汲み上げる構造で、とても素人の手に及ばず、井戸掘り職人によって掘削されました。
     
  4. 地中に埋め込む導水管として、昭和初期には「鉄管」ではなく人々の身近にある「竹」が用いられたことは驚くべき庶民の知恵でした。 しかし所詮竹は竹、腐食を免れず、やがて比較的安価で手に入れやすくなった鉄管に順次置き換えられてきました。
  5. 圃場整備事業が実施された際にもこの湧井戸は保存され、三重用水から給水を受けるようになった現在、農業用としては補助的給水源とみなされています。
  6. 西区の水田の所々にある湧井戸から常時湧き出ている水は、夏は冷たく冬は温かい、そのうえ水道水の様にカルキ臭さが無くて美味しいと評判を聞き付けて、喫茶店経営者や自然水愛好家が遠くから車で駆けつけ自由に水を汲んでいます。
    茨尾マンボの北方矢合川左岸の湧き井戸     (写真撮影:2008/03/29)
    湧井戸−1 湧井戸−2自然水愛好家

    (但し、水質検査は行われていませんので、念の為)



7.茨尾のマンボに思う

  •  私たちが住む桜の地は、質の良い地下水に恵まれて、弘化4年(1847)創業の伊藤酒造をはじめ酒造業者が4軒もありましたが、農業用水には大変な苦労が強いられた土地柄でした。

     農業用水路の歴史的遺産として、智積養水系水路はその水源が比較的豊かなことに起因して、大切に継承され、現在も現役で水田を潤す優れた灌漑施設です。

     方や、もう一つの水利開発事業であったマンボは、大勢の村民が力を合わせて懸命に築きましたが、十分な水が得られず、今世紀になって次々と廃棄されました。

     しかし、マンボこそ北勢地方の地形、地質、土壌など自然条件を見事に活かした灌漑施設であり、その中でも茨尾のマンボは、意欲と実行力と勇気ある農民二人の汗の結晶とも言うべき尊い遺産です。それにもかかわらず放棄され、桜地区の人々の記憶から忘れ去られようとしていることは非常に残念です。

     茨尾のマンボは青い粘土岩を開削したトンネルであるため、馬谷川の取水口と水田側の開口部をヒューム管に取り替えたことを除き、開削後約100年以上経過した現在でも、当初とほぼ同じ状態が保たれています。

     また通常マンボは、その機能を正常に保つため一年に1回の割で、マンボ(ざら)えが必要とされますが、幸い茨尾のマンボはその必要が無く手間要らずです。

     そうであるにもかかわらず、農業が抱える深刻な諸問題に阻(はば)まれて、ここ数十年間マンボは使用されておりません。このまま放置すると、やがて竹や雑木でマンボの開口部が埋もれて(ふさ)がり、その所在地が分からなくなる危険性があります。

     桜地区の苦難の農業史と先人の逞しい生命力を物語る遺跡として、茨尾のマンボの現状維持と保護を考え、語り継ぐことの大切さを再認識していただきたいと思います。

     
    ― 以上 ―
    謝辞:斧研の近藤善治様と小林藤夫様、乾谷の匿名希望様に、数々のご教示を賜りました。心より感謝申し上げます。
2008年9月 (記・永瀧 洋子) 

参考文献: 『明治十七年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、『明治十七年調伊勢国三重郡智積村地誌』、『伊勢国三重郡智積村地誌附属之図(明治18年10月)』、『四日市市史第一巻、第五巻、第八巻、第十七巻』、『四日市市史研究第四号』、『大安町史第二巻』、『菰野町史下巻』、『鈴鹿市史第三巻』、『三重用水史』、『員弁史談』(近藤実著)、『員弁の姿』(員弁教育委員会編)、『ふるさとの山河』(大安町文化保存会編)、『伊勢治田銀銅山の今昔』(黒川静夫著)