智積御厨のこと
- 御厨とは、皇室・院宮・王臣家の所領で、主食の米麦、魚介、果樹類等調達するのを目的として、平安時代に院宮・王臣が地方と交渉して設立したものです。
智積御厨の設立は、文永年間(1262〜1274年)に涼泉院の故中将入道公行への譲状があり、元応二年(1320年)の七月一日付けの文書に御厨を三つに分けて子供に其々相続させたと記せられて有ります。
当時の内宮御領智積御厨は、年貢供物一切合わせて十石(上分)、口入加地子三十石、計四十石の収量の上がる田積百八十町歩の土地があったと記せられています。
智積御厨は、歴代中御門松木家から高官を捨て僧となり、伊勢智積に下向して智積御厨に住んだ。
健全なる事務をとった「所務所」、雑掌の「政所」があって、永年に亘り京都の中央との交流が絶えず行われていて、雑役に服する人夫すら定められていたので、二人の人夫は京都と智積局を往来し物資輸送等の公用に務めたのである。
松木家も代々高住を捨てて出家し、伊勢に下向して永住した。「近日勢州より上洛する」という記事もあり、永代にわたって大部分の方が伊勢で過ごしており、京都に居る内局連は子供を連れて時々下向することが永年数々有り、伊勢で元服したり、当地で死んだ方も数名あったことが、智積御厨に関する文書の『醍醐寺三宝院智積御厨案内』に明細な記事としてあります。
智積御厨と京都との交流コース
- 智積御厨と京都との交流コースについて考えてみると、何はともあれ途中には天下の難所「鈴鹿越え」があるのです。
伊勢と江州を結ぶ鈴鹿峠道は、南から北まで十か所有ります。
南から東海道の鈴鹿峠、次に安楽峠、次に小岐須峠、次に水沢峠、次に菰野の武平峠、次は千種越え三ヶ所・根の平中峠・羽戸峰峠・石榑峠、最北端が国道の安楽峠とあります。
「代々中御門伊勢下向土山泊まり」と記せられていますが、内局子供同道の節は、「水口の宿場泊り」とあります。いずれも京都から土山までは旧東海道を利用していたと思われます。
その先、本陣のある坂下の宿、有名な関の宿場、城下町亀山の記事が全然出てこないのと、”馬が物を言った鈴鹿の坂”と云われた天下の嶮も何の音沙汰も記せられてないところをみると、土山から左折して鈴鹿峠の間道と云われる”山女原(あけびはら)”から伊勢安楽の平尾へ通ずる”安楽道”を通ったと思われます。
土山から山女原は、街道筋には野仏が今も誰かの手によって祀られているのが点々と残されています。
”安楽越”は他の九ヶ所とは異なり、字の通り実に安楽なる道で峠の感覚は全く有りません。ただ一か所の峻険すらなく、登りも平易な坂道で短いです。ここが峠かと思う間に降りに入り、途中美しい石水峡の下を通り、旧道は左折して坂本の里に入ります。その分かれ道に、今も古い道標「左京みち」の石があります。
山女原にも古い昔の石に「右いせ道」の道標と、この道は今”東海ハイキング道路”にて、安楽まで15K、鈴鹿十峠の安楽峠にて、昔織田信長が三千の軍勢と共に通った故事板が建てられています。 また伊勢両宮奉納と記せられた石の古い灯篭が今も岡に残されているのです。この付近、野仏も多くみられます。
京道も安楽坂本の里から分かれて「鶏足山野登寺」への表参道が分かれて、”京参り帰りに野登さんへ参拝して来た”との話も伝わっています。 道は峰ヶ城跡から鈴峰村南畑へ降りて、「右つばき左のぼの道」の道標が見受けられて降りて国道巡見道路の深井沢へ北上すれば、故郷の坊主尾に入ります。 また、永年製材機の無い昔のこと、毎年東江州専門に各所を樵本業で巡っていた吉沢の伊藤栄次郎氏の話に、「伊勢から来た」と言えばどこの家でも泊めてくれたそうです。
ー 完 ー
(推定)1499年〜1587年頃、「智積御厨」の松木家の人々及び関係者の往還路
- 京 → 東海道 → 「水口宿」又は「土山宿で宿泊」 → 田村神社 → 女山原 → 安楽峠 → 石水渓 → 巡礼道 → 亀山道(県道753号)→ 現・桜台を通り抜け道(桜台造成以前まで存在 → 「矢合川(旧・上生水橋」 → 智積御厨政所(現・椿岸神社境内)
(参照・「上生水橋」の位置 「桜の史跡NO.12引石」の「生水橋と引石の位置図」リンク
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