現代の私たちにとって、未婚女子の団体名が”処女会”とはあまりにも直接的生理的で大きな違和感を覚えます。なぜ処女会と名付けたのか、 処女会と名付けるよう強制されていたのか、という疑問があります。
- 処女会の組織化に大きな功績を残した内務省嘱託の天野藤男氏と文部省嘱託の片岡重助氏の著書には、「一度貞操を破った女は、如何に容色の美が優れていても乙女らしい淳美さは失われて、最早人をして讃仰せしむるの力がない」という趣旨の文脈が処々に散見されます。言い換えれば、明治から大正時代の未婚女子は、このような倫理観や社会的規範の中で青少年期を過ごしていたということです。
- ”処女会の父”とも呼ばれた天野氏は、「名称は必ずしも処女会に一定せしめよという訳ではない。処女会と呼ぶは、あまりに生理的で、露骨で奥ゆかしくない等という批評をも受けている」と正直に打ち明けながらも、「処女と呼ぶは、露骨の様であるが、名称其の物が既に一種の制裁と権威とを持っているとも解せられるのである。」と主張しています。(「第二章処女会並青年団沿革」『農村処女会の組織及指導』天野藤男著 )
- 『三重県補習教育社会教育事績』(三重県教育会大正11年(1922)発行)は、県内の社会教育の実績として、模範的な「補習学校」11例、「青年団」20例、「処女会」15例を記載しています。その「処女会」15例の中に「三重郡桜村処女会」もありますが、「多気郡西外城田村温故会」、「度会郡沼木村上野同窓女学会」、「南牟婁郡南輪内村古江婦人会」もあり、会の名称は自由であったことが分かります。
以上のように「処女会」の名称は強制ではなかったものの、倫理を重んじる農山漁村の役人や関係者の判断が重視され、その結果「○○村処女会」という名称が全国的多数となったようです。
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