年 代 |
小 学 校 設 立 状 況 |
江戸後期〜
明治初期 |
寺子屋や諸藩の塾や私塾が「学制」以降の学校教育の素地となるが、智積・佐倉・桜一色の各村に「寺子屋」は無かった。(『三重県教育史第一巻』) |
1873年
(明治6) |
1月、菰野藩の顕道館の建物と図書等を利用して「菰野小学校」が創立され、この通学区に佐倉村、桜一色村、智積村が含まれる。但し当地に関しては詳細不明。(『菰野小学校百二十周年記念校史』) |
1875年
(明治8) |
7月、多宝山智積寺を改築して桜村と智積村の連合で「人民共立仮小学校」創立。(桜一色村はこの8月に佐倉村と合併して「桜村」となる) 教員2人、生徒数113人、男子85人・女子28人。【女子の就学は男子の33%】 桜村と智積村の人口2,300人。 |
1876年
(明治9) |
12月、多宝山智積寺「伊勢暴動」で焼失。
校舎と図書等を焼失したため、県から罹災見舞金20円給付有り。
智積村の延福寺(薬師堂)を仮校舎として授業を再開するも非常に手狭であった。 |
1879年
(明治12) |
5月、桜村字斧研(よきとぎ)に「人民共立高丘小学校」創立。西区児童の通学困難が解消される。 面積144坪、教員1名、助手3名、生徒男子44人・女子44人。【注目!生徒数が男女同数】 |
1881年
(明治14) |
10月、桜村字中縄手に桜村・智積村・神森村の各村連絡協議会を結成して「武佐学校」を創立。
敷地約792u、校舎:東西約16.2m、南北約10.8mの二階建。
教員1人、助手8人、生徒男子140人・女子72人。【女子の就学は男子の51%】
「武佐学校卒業生記念写真」 |
1887年
(明治20) |
武佐学校を「桜尋常小学校」と改める。生徒男子176人・女子103人。【女子の就学は男子の59%】 高等科は「組合立高等小学校」として菰野小学校の敷地に併置され、桜村・智積村からも通学する。 |
1889年
(明治22) |
市町村制が施行され、智積村は桜村へ合併。(神森村は菰野村へ合併して、同村の児童は明治25年に菰野小学校へ移る) |
1900年
(明治33) |
尋常小学校4年制の義務教育制度確立。授業料廃止。
小学校設置の費用は村の負担となり、斧研の高丘分教場廃止。
授業料無料化に伴い、女子の就学率は全国的に飛躍的に伸びる。(参照:【表−1】明治35年女子就学率) 毎年大量の留年・中途退学者を出した「試験進級制度」廃止される。 |
1901年
(明治34) |
「桜尋常小学校」を桜村字中野(現桜小学校の地)へ新築移転。(移転理由:字武佐では西垣内地域からの通学が困難であった) 翌35年、同校は設備優良と評価され知事より金70円給付される。 |
1908年
(明治41) |
「尋常小学校6年制の義務教育」の実施。
「桜尋常高等小学校」と改称して2年制の高等小学校を併置。(菰野村に在った「菰野村外5ヶ村組合立高等小学校」の組合解散) 教員7名、生徒男子186名、女子144名。【女子の就学は男子の77%】 尋常3年から、女子に対して「裁縫」が必須科目となる。 |