3章 女子の就学率と女子教育
  • 明治末期から大正時代を通して、庶民の間で「学校」と言えば「尋常小学校」を指しました。
     三重郡桜村では、明治43年に「桜村処女会」の創立以来、12歳で尋常小学校を卒業した女子のおよそ半数弱が「処女会」の会員となって、裁縫を習ったり、婦徳を学ぶ講演会や生活改善・保健衛生の講習会などに参加して、将来賢い母となり良い妻となるための知識や技術を身に付けました。
     しかし、当時の日本人の生活は全般的に非常に貧しく、小学校を卒業した女子の中には、家計を助けるために卒業直後から製糸工場などへ働きに出た女子もたくさんいました。更にもっと貧しい家庭の女子は、小学校さえも就学できず、自宅で弟妹の子守や家事労働をするのはまだしも、口減らしのために「他家へ子守奉公」に出されることもありました。
1.明治時代の女子就学率
  • 1872年(明治5)文部省は「学制」を発布して、四民平等・男女平等の基本理念で近代的学校制度を定め、「男女の別なく小学校へ入学して学を修め、父兄は子どもを就学させる責任があり、学費は人民が負担すべきもの」としました。
  • 国は財政難から地方財政で校舎を造らせ、授業料は父兄から徴収しました。当時の小学校名が「人民共立○○小学校」と名付けられたことがその実情を表しています。(「2.桜村の小学校設立状況」の1875年と79年を参照) 
  • 当時、日本の人口の8割が農民で、家族労働に依存する農民にとって子どもは大事な働き手でした。
    授業料の負担は増税と同じであり、しかも子どもを学校へ行かせることも実質的な増税と変わりないので、子どもを学校へ行かせない親がたくさんいました。
    1886年(明治19)当時の尋常小学校の月謝は15銭ほど(今の1,300円位)でした。
       (出典『三重県史あれこれ(1)』
  • 1877年(明治10)、早くも三重県学齢男子の就学率は51.3%に達します。
    これは江戸時代から、「寺子屋」で学ぶ習慣を持つ男子が多かったことが就学率の向上に繋がったとみなされています。
  • しかし、同10年の三重県学齢女子の就学率は、19.9%と男子の半分にも達していません。
    これは江戸期から「女子に教育は要らない」という庶民の女子差別観(特に農村部に強い)が原因とされています。

    【表ー1】三重県学齢児童男女別就学率と全国との対比

    (『三重県教育史年表統計編』より作成)
     上表で、明治15年(1882)に全国就学率が50%に達した。その後に低下した原因は、「松方デフレ不況」による経済不況の影響で、特に農村部では農産物の低価格を招き、しかも農村部を襲った旱魃や冷害による被害と重なった。 止む無く、農民は離農して工場労働者となったり、自作農から小作農に転落するなど困窮を極め、学校どころではなかった

2.桜村の小学校設立状況(出典・『桜小学校の百年』昭和50年5月編)
年 代 小 学 校 設 立 状 況
江戸後期〜
  明治初期
寺子屋や諸藩の塾や私塾が「学制」以降の学校教育の素地となるが、智積・佐倉・桜一色の各村に「寺子屋」は無かった。(『三重県教育史第一巻』)
1873年
 (明治6)
1月、菰野藩の顕道館の建物と図書等を利用して「菰野小学校」が創立され、この通学区に佐倉村、桜一色村、智積村が含まれる。但し当地に関しては詳細不明。(『菰野小学校百二十周年記念校史』)
1875年
 (明治8)
7月、多宝山智積寺を改築して桜村と智積村の連合で「人民共立仮小学校」創立。(桜一色村はこの8月に佐倉村と合併して「桜村」となる) 教員2人、生徒数113人、男子85人・女子28人。【女子の就学は男子の33%】 桜村と智積村の人口2,300人
1876年
 (明治9)
12月、多宝山智積寺「伊勢暴動」で焼失。
校舎と図書等を焼失したため、県から罹災見舞金20円給付有り。
智積村の延福寺(薬師堂)を仮校舎として授業を再開するも非常に手狭であった。
1879年
 (明治12)
5月、桜村字斧研(よきとぎ)に「人民共立高丘小学校」創立。西区児童の通学困難が解消される。 面積144坪、教員1名、助手3名、生徒男子44人・女子44人。【注目!生徒数が男女同数】
1881年
 (明治14)
10月、桜村字中縄手に桜村・智積村・神森村の各村連絡協議会を結成して「武佐学校」を創立。
敷地約792u、校舎:東西約16.2m、南北約10.8mの二階建。 
教員1人、助手8人、生徒男子140人・女子72人。【女子の就学は男子の51%】
    「武佐学校卒業生記念写真」
1887年
 (明治20)
武佐学校を「桜尋常小学校」と改める。生徒男子176人・女子103人。【女子の就学は男子の59%】 高等科は「組合立高等小学校」として菰野小学校の敷地に併置され、桜村・智積村からも通学する。
1889年
(明治22)
市町村制が施行され、智積村は桜村へ合併。(神森村は菰野村へ合併して、同村の児童は明治25年に菰野小学校へ移る)
1900年
(明治33)
尋常小学校4年制の義務教育制度確立。授業料廃止
小学校設置の費用は村の負担となり、斧研の高丘分教場廃止。
授業料無料化に伴い、女子の就学率は全国的に飛躍的に伸びる。(参照:【表−1】明治35年女子就学率) 毎年大量の留年・中途退学者を出した「試験進級制度」廃止される。
1901年
(明治34)
「桜尋常小学校」を桜村字中野(現桜小学校の地)へ新築移転。(移転理由:字武佐では西垣内地域からの通学が困難であった) 翌35年、同校は設備優良と評価され知事より金70円給付される。
1908年
(明治41)
「尋常小学校6年制の義務教育」の実施。
「桜尋常高等小学校」と改称して2年制の高等小学校を併置。(菰野村に在った「菰野村外5ヶ村組合立高等小学校」の組合解散) 教員7名、生徒男子186名、女子144名。【女子の就学は男子の77%】 尋常3年から、女子に対して「裁縫」が必須科目となる。
                   (『桜小学校の百年』、『三重縣補習教育社會教育事績』、杉野久様の証言)

3.裁縫授業の本格化から女子就学率の向上へ
  •  1893年(明治26)文部省は「女子教育ニ関スル件」の訓令を出して、「普通教育は男女の差が在るべきでないこと」、「実用教科として裁縫は女子の生活に於て最も必要であるから、地方の状況に応じて小学校の教科目に裁縫を加えること」と述べ、庶民の女子教育不要論を打破して、女子就学率向上に努めるよう各府県へ指導しています。

     これ以降、庶民の”女に学問はいらない”から一転して、”裁縫ができてこそ一人前の女” の社会通念と相まって女子の就学率向上の弾みとなります。参照【表―1】三重県学齢児童男女別就学率と全国との比較
     1900年(明治33年)、授業料が無料となって男女共に就学率の向上をみました。(【表ー1】明治30年女子就学率を参照)
  1. 三重県内小学校で裁縫教科が設けられる
    1892年(明治25)「三重県小学校教則」で、尋常小学校3年以上の女子に「裁縫」教科を設け裁縫授業要綱に基づき指導されました。

    【表ー2】「三重県小学校教則」1892年(明治25)による「裁縫授業内容」
    学 年 別 裁 縫 授 業 の 内 容 毎 週 時 間
    尋常小学校3学年 運針法、簡易なる衣服の縫い方 地域状況により
    適宜の処置
      〃  4学年 簡易なる衣服の縫方、通常衣服の繕い方
    高等小学校1学年 運針法、通常の衣服の縫い方等 3時間
      〃  2〜4学年 通常の衣服の縫い方等
                  (『三重県史資料編近代4社会文化』より作成)
  2. 桜村の裁縫教育事業
    1910年(明治43)に桜尋常高等小学校に「裁縫教室」が増築されて、尋常3年以上の女子に「裁縫」と、「修身」の応用として「作法」の授業も行われました。詳細は 6章@桜村の裁縫教育事業 参照。

4.女子教育と良妻賢母
  1. 子どもを教育する母・賢母
    1872年(明治5)学制の実施に際して、文部省は「当今着手の順序」を示し、その第三項目「一般ノ女子男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘキ事」で、「女子は母となり子どもの教育に大きく関わり、一般論として子どもの賢愚はその母の賢愚によるところが大きいので、女子は必ず教育を受けねばならない」と女子教育振興を明確にしました。この「子どもを教育する母」=「賢母」こそ進歩的・開明的な女性の理想像であると、啓蒙主義者や開明派の有識者に支持されました。


  2. 儒教的な女子教育へ転換
    ところが1890年(明治23)に発布された「教育勅語」によって、教育の根本方針が儒教的道徳を基礎に忠君愛国主義へと変更され、小学校の修身の授業は毎週1時間半から3時間と増えました。
    1891年(明治24)「小学校教則大綱 」が公布され、女子教育について「女児ニ在リテハ殊ニ貞淑ノ美徳ヲ養ハンコトニ注意スヘシ」と、貞淑な妻を養成する儒教的教育へと転換されました。
    1899年(明治32)樺山文相が、中流以上の社会の女子が通う高等女学校は「賢母良妻」の教育であると説明した頃から徐々に、温厚貞淑で生活に必要な知識と技術を身に付けた「良妻賢母」は、全女性の求められる理想像とされていきました。

  3. 第一次世界大戦(1914〜18年)以降
    欧米諸国の女性が戦時の銃後活動を逞しく展開した事実に影響を受けた日本の政府は、
    女性の役割を家事や育児など家庭内に限定した良妻賢母像から、日本の女性も家庭内だけの存在ではく、平素から就職して自活を促し、戦時には銃後活動に励むことが期待されるようになり、良妻賢母像が変容しました。
5.「明治民法」施行・・「家制度」の確立・・男性優位社会
  • 1898年(明治31)に施行された明治民法によって、男性優位の原則が確定されました。(以下概略)
    • 夫婦同姓とされ、妻は夫の姓を名乗ることとされる。 (古来より日本人は血縁意識が強く夫婦別姓を原則とした)
    • 戸主は家族に対して扶養義務を負うが、家族の生活を支配する権利(家族の居所指定権、婚姻、養子縁組、分家など)の許諾権を持つ。
    • 戸主の死亡後、男系の後継ぎがいない場合に限り女性の戸主も存在したが、入夫や養子を迎えるとその地位を明け渡さねばならない。
    • 財産の管理は夫がなす。妻の財産(結婚持参金)も管理する。
    • 妻の姦通は常に離婚事由になるが、夫は姦淫罪で有罪となった場合のみ離婚原因となる。男女平等ではない。
  • 大正元年生まれの桜村の女性 (聞き取り調査:1999年秋)
    • 「私の家は貧乏やったから、小学校卒業して12歳になったばかりで、村内の製糸工場に働きに出ました。だから「処女会」や「女子青年団」には入っていませんだ。そやけど、職場の女子はみんな入っとらんだで、あんまり苦にならんかった。
       一番辛かったことは、勤め始めて8年過ぎた頃、私が20歳になった頃な、前から好きやった村の青年の家から結婚話があった時のことや。私は一緒になりたかったのに、私の親が、私に「あと2年は働いてもらわんと困る。」と言うて、相手方にもそう言うて断ってしもたんや。あの時は悲して悔して親を憎んだもんや。そんでも仕方なく、あと2年働いて、そして今度は親が勧める相手と結婚しましたわ。 
      その時の気持ち? そやなあ、やっと工場勤めから解放されてホッとしたなあ・・・。まあ当時は、私の生家ばかりやない、みんなが今よりずっとずうっと貧しかったさかいなあ。私の両親もじいちゃんとばあちゃんを抱え、そのうえ子沢山でたいへんやったやろう。仕方なかったと思うてます。(終)
    大正時代、男子も女子も小学校を卒業すれば、一人前の働き手でした
    • 当時は「女子には義務教育だけで充分でそれ以上の学問は不要」という考えが支配的で、処女会に入会することもできず、ただひたすら働いて家計を助ける・・・このような青春を送った女性は決して珍しいことではなかったことをこの女性は証言しています。
    • 勿論、この傾向は桜村ばかりでなく全国各地で見られたことで、「処女会」を厄介物扱いして、「処女会ができて、働き盛りの娘を遊ばせて困る。」と、処女会に対する家人の非難が各地で起こったという話はこの女性の証言からも頷けます。
    • また同時に、この女性の話から、明治維新後の近代化路線と逆方向の封建時代の考え方に基いた”家制度”によって、家族員が家長の強い統制下にあり、そのことが当たり前のように庶民に浸透していた事実を私たちは知ることがでます。