1.時代背景
- 明治中期以降、紡績・製糸・綿織物などの軽工業が発展し、日露戦争(1904〜05年)前後には軍需部門を中心に製鉄・造船など重工業が発達しました。こうした工場の労働者は、貧しい家計を助けるために働きに出た農家の次男・三男と女子で、男子は造船所や鉄鋼所、女子は繊維産業部門などで、低賃金・長時間の労働条件下で働きました。
- 農村では、1873年(明治6)に政府が私的土地所有権を認め、地租改正を行い、土地を所有する農民に地価の3%を地租としたので、農民はその高負担に反発して各地で一揆が発生しました。明治9年12月に現・三重県松阪市で「伊勢暴動」が起り、暴動は北伊勢で熾烈を極め、当地の”小学校の校舎として使用していた多宝山智積寺”が一揆集団によって焼き討に遭いました。(この暴動の約2週間後に地租は2.5%に引き下げられる)
この頃から、農村の自然な自給体制が崩れ、代わりに商品経済が農村に浸透し、土地売買の自由化が農民層の分解を早め、農民の中には農地を手放して没落し、小作人として小作料を納めながら耕作を続けるか、離農して工場労働者となるかの選択が余儀なくされました。
- 日露戦争終結後、国民は戦時からの増税に喘ぎ、労働争議が激しくなり、1907年(明治40)には、足尾銅山・長崎造船所などで大規模なストライキが起こりました。こうした社会不安を背景として、政府は内務省を中心に「地方改良運動」を進め、@地方財政の立て直し、A由緒不明な神社や祠堂を整理して一村一社の神社合祀、B農事改良、C生活改善などを村是として実行させ、町村の租税負担能力を高めて、国家の基礎を固めることに力を注ぎました。また、旧村落ごとの「青年団」を町村ごとに再編強化して内務・文部両省の下に置き、町村内に在郷軍人会も組織化しました。
- 2.三重郡桜村のくらし (参考文献:『ふるさとの生活誌ー大正時代を中心にー』桜郷土史研究会編、写真も)
- 同じ頃桜村でも、富める者は地主兼手工業主となり、農民の階層化が目立ちました。村内には創業1830年(天保元年)の石川酒造をはじめとして酒造所が計4軒、明治・大正時代創業の味噌醤油製造所が4軒、大正初期創業の製茶工場が5軒、そして明治・大正時代にかけて創業された製糸工場が合計9ヶ所もありました。
- 製糸工場では男女合わせて従業員70人から20人前後の規模など様々で、そのうち女子従業員は村内や近村から通勤し、員弁郡・鈴鹿郡・南伊勢・長野県からの女子は寄宿舎生活をしながら、朝5時半頃から19時頃までの労働時間、休日は「祭日と月2回」(大正2〜昭和23年まで祝祭日は年10日)の労働条件下で働きました。 参照:3章(5)の「大正元年生まれの女性の話」
桜村の「東洋製糸株式会社」操業大正9〜昭和9年、村内有力者の出資で設立) |
(桜村の工女さん) |
- 桜村の農家では、江戸時代から麦や菜種を水田の裏作として作付けしていましたが、明治以降は養蚕農家が増え桑栽培をして蚕を育て繭を製糸業者に売って収入を増やしました。養蚕をしない農家は、桑を売ったり、養蚕農家へ手伝いに行って手間賃稼ぎをしました。また茶の栽培は、比較的手間がかからず気候の影響が少ないので、農家の副収入として盛んに行われました。
- 地方改良運動の一つ「一村一社の神社合祀」は、桜村では1909年(明治42)に完了し、それまで主な字(あざ)で祀られていた神社11社と山神10体が全て椿岸神社へ合祀され、また同年2月11日には「桜村青年団」が設立されました。
- 3.処女会組織化への動向
- @江戸時代から明治初期まで
青年女子には、青年男子の「若者組」や「若連中(三重郡ではこう呼ばれた)」のような村落の様々な労働・消防・祭礼など地域を守り必要とされる組織はありませんでした。しかし、わずかに西南日本の沿海部に、数えの12,3歳から結婚までの娘で組織された「娘組」や「娘宿」があり、娘達が夕食後集まって針仕事や糸繰りや粉ひきなどの仕事をしながら歓談して帰宅、または寝泊りしていたことが知られています。これも明治期に入ると、青年男子の「若者組」などと同様に、風紀を乱すとして規制され消滅したとされています。
A 明治中期以降の青年女子の活躍
明治30年代、婦人の啓蒙や婦徳の修養を目的として、中流・上流家庭の既婚婦人によって結成された「婦人会」があり、その内部組織に未婚女子で構成された「処女部」がつくられていました。この女子たちは日露戦争時に婦人会員と共に、戦地へ慰問状の送付や出征軍人の家族の慰問など”銃後活動”をしました。
同じ頃、地域によっては小規模ながら、小学校を卒業した女子が「女子同窓会」、「姉妹会」、「裁縫会」をつくり、年に数回あるいは定期的に寄り集って歓談したり一緒に裁縫して教え合っていました。
B 処女会設立への動向
「青年団」組織化は、「処女会」組織化に影響を与えました。
- 「青年団」の組織化まで
日清・日露の戦時中に”銃後活動”をした青年男子の目覚ましい活躍は、政府の着目するところとなり、1905年(明治38)9月に内務省は「青年男子を”地方改良運動”の担い手」として、10月には文部省が「青年の教育と修養機関」として、それぞれ地方長官に通牒を出し、両省は協同して「青年団」の組織・育成に取り組みました。
- 「処女会」の組織化まで
日露戦争後の労働運動や社会主義思想を抑制するため、1908年(明治41)政府が戊申詔書を発布して風紀を引締め勤倹節約を奨励したこと、及び青年団の組織化が契機となり、それまでの「婦人会の処女部」や「女子同窓会」などを包含しつつ、「処女会」を組織する動きが徐々に起りました。但し、青年団が国策によって組織されたのとは異なり、青年団に準じる形で、町村自治体の裁量でゆるやかに組織されていきました。
C 処女会の発展
1918年(大正7)、内務省地方局嘱託の天野藤男氏が中心に、山脇房子氏、鳩山春子氏など女性教育者の協力を得ながら「全国処女会中央部」が全国的連絡機関として発足し、「処女会」は補習教育・体育奨励・経済思想養成・一村風紀改善をあわせ持つ女子修養団体としての性格を強めました。
また機関紙「処女会の友」の刊行、処女会設置の推進、指導者講習会などの事業も展開され、以降、会数が伸び活動も大きく進展しました。
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三重県志摩郡船越村(現・志摩市大王町船越)の「寝屋(ねや)」について
1918年(大正7)7月、 三重県志摩郡船越村「船越村処女会」幹部会にて、
会長の「修養講和」(以下概略)
「本村は古来より、娘が年頃になると両親が勧めて他家(大家)へ寝に行かせる風習の「寝屋」があるが、これは往昔の自由な男女交際の流れを汲むものであった。しかし昨今では教育が行き届き弊風が改まってきているが、未だに残っているのは、庶民が狭い家に大家族で寝起きする不便さにあり、子供が幼少ならともかく、成長した兄姉が寝る場所が無いから、娘に大家を寝る家とさせるからである。これを全廃するには民家の改築が前提となるが、それは簡単なことではない。とにかく、処女会員は風儀上忌まわしき問題を惹き起こさぬよう各自が留意し、他家へ寝に出なくてもよいようになれば、必ず実家で寝起きするように努め、以て処女の美風を作興し、延いては青年を鞭撻する覚悟に出て欲しい。」(『船越村処女会史』)
「寝屋」という風習の持つ一面には、狭い家屋で暮らす庶民の苦渋の選択があったとは痛ましい話です。
とは言え、全国の貧しい農山漁村でも同じ事情を抱えていた筈であり、処女会結成後もこれと似たような風習があちこちに残り、(記録には残らなかったものの)決して船越村だけの問題ではなかったように思います。
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