5章 処女会の会長種別
1.三重県内処女会の会長種別内訳
 
『三重県学事統計一覧』に、会員を会長とする処女会は、大正13年に3会あり、大正14年には12会に増加していることが分かりました。この統計は郡単位形式のため処女会名は不明ですが、両年の「会員を会長」とする郡名のなかに「三重郡」はありませんでした。
  • 【表−3】 (『大正十四年三重県学事統計一覧』より作成)
    大正13年(1924)度  大正13年度三重県内処女会数335のうち
    「会員」を会長とする会は ”3会”ありました。
     内訳
       志摩郡・・・・・・1会
       南牟婁郡・・・・・2会




    【表ー4】 (『大正十四年三重県学事統計一覧』より作成)
    大正14年(1925)度 大正14年度三重県内処女会数336のうち
    「会員」を会長とする会は ”12会”に増えました。
     内訳
       飯南郡・・・・・・1会
       阿山郡・・・・・・9会
       南牟婁郡・・・・・2会

2.三重郡内処女会の会長種別内訳
 念のため、『三重県学事統計一覧』の「三重郡内処女会29会」の「会長種別の内訳」を調べてみたところ、大正13、14年度の両年ともに「会員を会長」とする処女会は「0」でした。
以上から、桜村処女会の実態は『三重県学事統計一覧』に全く反映されていないことが判明しました。
  • 【表−5】
    大正13年(1924)
    三重郡内処女会29会の「会長の内訳」

      市町村長公吏・・・・・・・16会
      小学校長教員・・・・・・・ 5会
      神官僧侶・・・・・・・・・ 0会
      名望家・・・・・・・・・・ 8会
      会員・・・・・・・・・・0会
    大正14年(1925)
    三重郡内処女会29会の「会長の内訳」

      市町村長公吏・・・・・・・17会
      小学校長教員・・・・・ ・・7会
      神官僧侶・・・・・・・・・ 0会
      名望家・・・・・・・・・・ 5会
      会員・・・・・・・・・・ 0会
3.三重郡町村処女会準則
  ここで、三重郡内の処女会に絞って考えると、1911年(明治44)1月23日に「三重郡町村処女会準則」を示し、郡内の処女会未設の村はこれに準拠して至急設置するよう通達が出されまhした。(『三重県三重郡誌』) 同郡内の桜村では「桜村処女会」が既にこれより一年前に創立されています。
  • 三重郡町村処女会準則(1911年(明治44)1月23日付)
    目 的 教育勅語戊申証書のご趣旨に基づき、婦徳を修養し、知能を啓発し、且つ家庭の改良を図ることを目的とする
    会 員 通常会員 村内に居住する満12歳以上25歳以下の処女とする。但し既婚者でも本人の希望により通常会員になり得る
    名誉会員 学識徳望のある者、又は本会の功労のある者を推薦する
    事 業 1.講和会及び講習会
    2.善行者の表彰
    3.慈善事業及び共同作業
    4.母姉会の指導を受け家庭を改良し教育及び実業の発展を助成する
    5.その他上記に準ずる適切な事業
    役 員 会長  1名 村長を推薦する
    副会長 1名 学校長を推薦する
    理事  若干名 会長が嘱託する
    評議員 若干名 区長又は各部落組長に嘱託する
    幹事  若干名 各字もしくは部落において会員中より2名を互選し任期を2ヶ年とする
    義 務 基金を蓄積する
    経 費 補助金、寄付金、その他会員の共同勤労より得た収益を充当する
                       (『三重県三重郡誌』、『四日市市史第13巻』より作成)
  • 「三重郡町村処女会準則」の特徴
    • 「会長は村長、副会長は学校長を推選する」と規定。
    • 「会員」を通常会員と名誉会員に分け、「通常会員には既婚者も希望すればなれる」とする。明治末期の三重郡の農村地帯で「既婚女性の学習への道が開かれた」画期的な規定です。
      (果たして、三重郡内で何人の既婚女性がその恩恵に浴したか興味あるところですが、杉野様の話では、桜村処女会には既婚者はいなかったそうです)
     
4.桜村では、何故 処女会の「会員」を「会長・副会長」にしたのか?
 『三重県学事統計一覧』の大正13・14年度版は、桜村処女会の実態が伴わない統計でしたが、そのことは横に置くとして、処女会の「会員を会長」した会数は、三重県内では僅かの12会、三重郡内では皆無でした。また桜村では「青年団の団長は団員ではない」にもかかわらず、「処女会」の「会長は会員」でした。男尊女卑の傾向が強い大正時代の同一村内で、女子が男子に先んじて自主・自立性のある先進的な経験を積むことができた理由について考察しました。
  1. 大正4年から9年にかけて、内務・文部両省は青年団に関する共同訓令を4回出して、「青年団体の指導者には小学校長など教育者を充てるように勧め、更に政党や思想家や事業家など全ての影響を退けるため、団長は団員から選出して自主・自立しなければならない」と繰り返し強調しています。
    @大正13年度三重県内青年団の団長種別(『大正十四年三重県学事統計一覧』より)
     三重県内青年団の総数343団のうち、団長が団員の青年団は65団で全体の19%でした。
    内務・文部両省が再三にわたって出した訓令の効果があまり表れていません。
    A大正13年度三重郡内青年団の団長種別(『大正十四年三重縣学事統計一覧』)
     三重郡内では、29団のうち「団長」が名望家ー12団、団員ー8団、小学校長ー6団、市町村長公吏ー2団、神職・僧侶ー1団でした。
    つまり、三重郡内では名望家が団長である傾向が強かったようです。したがって、桜村青年団の団長が「名望家の石川匡医師」という状況は、三重郡内においてはごく普通の事であったようです。
  2. 大正時代の桜村の情勢も重要な判断材料です。既に1章で少しみたように、桜村は地方の農村には珍しく地場産業が盛んで、工場で働く他村からの寄留者は300人を超え、料理屋・飲食店、それにカフェーもあり、時には浪花節や芝居が興行されたり無声映画も上映され、大正2年には湯ノ山〜四日市間の軽便鉄道が村内を走り、10年には乗り合いバスも走るなど交通網が発達し、村内には活気が溢れていたようです。(『ふるさとの生活誌ー大正時代を中心にー』) 加えて、知識人層も厚く石川匡医師・山田医師・吉田政医師と3人もの優秀な開業医が揃い、なかでも吉田政医師は東京大学出身の優れた開明学者としても近郷に評判でした。
  3. 『三重県補習教育社会教育事績』によると、「学校を中心とする社会教育」の「特に高等女学校に於て行う事項」に「特に校下処女会の指導に努む」と規定があります。
    桜村処女会の会長の伊藤様と副会長の杉野様は、共に四日市高等女学校の卒業生であり、処女会指導者として三重県の承認があったも同然です。(但し、杉野様ご自身は処女会指導方法を女学校で習った記憶はないそうです)
  •  【考察】
     「桜村青年団の団長は石川匡医師で、その人望は絶大で、団員のみならず村人も近隣の人々も尊敬する人であった」と、平成9年当時の桜郷土史研究会員が証言していることから類推して、石川団長と団員は他から指図されること無く青年団事業を実行し得た可能性が考えられます。つまり、桜村青年団という集団が、村長をはじめ桜村役場や学校などいわゆる官側と一定の距離を置き、村内に於いてある種の独立団体を保持し得る可能性を意味します。
    ところで、上記 A. の内務・文部両省が「青年団の指導者には”小学校長等教育者”を充てるように」と再三訓令を出しているのは、青年団が自由主義的・社会主義的傾倒への萌芽を摘み取り、青年団を国家体制に組み込んで国策に従わせようとするためでした。
     しかし、小林繁太郎村長は桜村青年団が社会主義的活動とは全く無縁であると承知していたので、三重郡役所から上記A.の「青年団の訓令」を受け、村長としては国の意向に沿うのが当然であったものの、B.でみた村内の有力者や有識者の意見や村民の意向に沿って、「石川氏の団長続投」と決せられたのではないかと考えられます。
     こうして小林村長は、青年団の団員を団長にできず、国の指導に沿えませんでしたが、彼は決して無為無策の村長ではなく、それどころか、明治42年11月に村長就任から昭和8年まで24年間にわたる任期中に、桜村の共有林(桜村財産区)の植樹・育成に大きな功績を立てる一方で、他村に率先して処女会創立を成し、桜村立農業補習学校とその女子部の設立など細やかに教育機関の充実に努め、盤石な村政を築き上げて村民の信望が殊のほか厚い村長でした。(このことは、1954年(昭和29)村人によって「小林繁太郎彰功碑」が建立されたことからも判ります)
     以上のように、物事を多角的に捉える視野と時流を読むのに長けた村長は、村内の開明学者等とも協議した上で、自身が処女会の会長の座を退き、上記のC.に該当する聡明な女性の伊藤様と杉野様の両人に信頼を置いて、三重郡内に未だ無く、県内でも希少であった「処女会の会長・副会長を会員から選出する」という先進的な改革を実現させたのだと考えます。