所在地 | 蟹池から516m下流。 菰野町神森。 湯の山水産センター研究所(旧三重県水産技術センター跡)の直ぐ北側。
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重要性 | 智積養水の「二分八分」の分水地点。 ここは、江戸時代の頃から、度々「水争い」の争点となった場所です。 「蟹池」からの流水が、この地点で「二分八分」の割で分流され、二分の流水は神森地区東方の水田を灌漑し、八分は智積養水路に流されました。 昔は、今日のようにコンクリートで固められていなかったので、大雨が降ったり日照になったりすると、積み上げてあった石や土が崩れ、微妙にその位置も水位の高低も変化しました。 水の多少が農民の命取りであった時代の事ですから、自然現象にしろ、人為的なものであるにしろ、わずかな水位の変化も、たちまち水争いに発展しました。 |
歴史上の出来事 | 江戸時代の古文書によると、 1777年(安永7年)、森村(現・菰野町神森)と智積村の間で水論訴訟が起こり、1786年(天明6年)に和解しています。この10年間、智積村は水不足でたいへん苦労しました。 1853年(嘉永6年)に起った水論の和解条件 この水論で、初めて「二分八分」の文言が用いられ、和解裁定に至りました。 ★森村字欠之下のこの地点に分水堰を設け、蟹池からの流水の分水割合を、森村字欠之下が二分、智積養水が八分と取り決められました。 ただし旱魃の時に、「欠之下」の水田が湛水しない場合、この地点に土居木の堰を立てて先ず欠之下を湛水させる。その後全水を智積養水に流す。森村は決して余水を三滝川に流さない。以上が条件付けられました。 |
二分八分/分水地点。 湯の山水産センター研究所の北側。 まっすぐ流れているのが、八分の智積養水路。 二分は、画面左 現・神森地区字欠之下の水田を灌漑します。 |
智積養水下流から撮影。(左写真と逆方向) 水路の突き当たりが二分八分地点。 右手は、湯の山水産センター研究所(旧三重県水産技術センター跡)。 蟹池からの水は、写真左手からフェンス沿いに流れ来て、写真中央奥の地点で鋭角に曲がり、正面の水路(智積養水)となります。 |
(1)蟹池 |
(2)二分八分 |
(3)三十三間筒 |
(4)町並みを流れる (智積養水の歴史) |
(5)排水口 |