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「道標」は「道しるべ」とも呼ばれ、旅人や通行人の便宜のため、木や石などにそれぞれの道が進む方向・目的地・距離(里程)などを記して路傍に立てた標示物です。 まれに道祖神や地蔵の台座に、案内表示とともに発起人や年号を刻んで、社寺信仰や供養を兼ねてたものもあります。 道標の起源は明確ではありませんが、現存する遺物の大半は近世以降に設けられ、江戸時代に旅行者が増えるにともない、道標も増設されていったようです。 現在は、全国画一化された道路標識に取って代わられ、「道標」は道ばたに忘れ去られた様な存在となっていますが、気を付けて見て歩くと、今なお昔通りの場所に大切に残されている道標に出会うことができます。 |
1.桜地区の道標 |
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桜地区の道標の“特徴” | |
現在残っている桜地区の道標9基には、いずれも服部泰次郎の名が刻まれており、同氏の経歴から大正8年〜9年にかけて建てられたものであることが分かります。これらの道標の石柱高は約50〜60cm、石柱上部は約17×18cm前後で、材質は朝明石(花崗岩。菰野石とも呼ばれる)で造られています。 | |
桜地区内の道標は、『続ふるさとの生活誌』(1990年発行、桜郷土史研究会編集)によると、紛失したものを含めて、元々12基あったことが判ります。 2005年7月8日現在、12基の内2基は完全消失、1基:「道標-1」は行方不明、2基:「道標-5」と「道標−10」は本来の設置場所から撤去され、現在は桜駐在所(旧桜地区市民センター)の北側に屋外展示されています。(管理:桜郷土史研究会) 従って、桜地区では7基の道標が今尚現役でその任務を遂行中です。 |
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「道標」の設置場所は、「Map道標と山の神」でご確認ください。 |
【道標-1】 (行方不明) (写真撮影:故藤岡修氏。桜ヶ丘) (撮影年月:1998年4月) |
2002年(平成14)4月19日の調査時以降行方不明です。 (註:「道標-2」と全く同方向を指しますが、陰刻の文字形は明らかに異なります) |
【道標-2】 (撮影日:2002年4月19日) |
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【道標-3】 (撮影日:2002年4月19日) |
県村平尾(あがたむらひらお)は、三滝川北岸にあり、ここから平尾までの道を平尾道と呼んでいました。 |
【道標-4】 (撮影日:2002年4月19日) |
生垣に隠れて分かり難いです。 |
【道標-5】 (2002年4月19日撮影調査時の状態) 現在は駐在所北側に屋外展示されています。 屋外展示へ |
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昔、この道標が立っていた周辺は、山あいに開けた水田地帯で人家も無く寂しい場所でした。道路分岐点でこの道標はひっそりとたたずみながらも、しっかりと道案内をして旅人に大きな安心感を与えていたことでしょう。 |
【道標-6 (撮影日:2002年4月19日) |
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【道標-7】 (撮影日:2004年4月19日) |
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【道標-8】 写真: 故藤岡修氏(桜ヶ丘)1998年4月撮影 (撮影日:2002年4月19日) |
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【道標-9】 (撮影日:2004年10月15日) |
この道標は、平成10年(1998)8月、当地中から掘り出されました。
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この道標の発見者:山原茂様(桜町西区)の談話(2004年10月15日) 『子供の頃、学校帰りにこの三叉路の道標でよく遊んだものです。 昭和55年(1980)頃、この三叉路に「桜中学校敷地造成並びに建設工事用仮事務所」のプレハブが建てられました。 およそ2年後の昭和57年4月に桜中学校は開校され、プレハブも撤去されました。 それから時が経ち、平成10年(1998)の初夏、この場所に「団体営ほ場整備事業竣工記念碑」と「団体営灌漑排水事業竣工記念碑」が設置される事になり、工事人たちがパワーシャベルやトラックで残土処理をしていた時、ここを通りかかり、偶然石柱が掘り起こされるのを目撃しました。 それが道標の発見です。 その時まで道標の事はすっかり忘れていましたが、懐かしく思い、いったん家へ運んで、水道水とタワシで土砂をきれいに落として保管していました。 その後ここに記念碑が建てられ、ゴミ置き場が設置される際、交通の邪魔にならず、しかも道標の役割を果たすことの出来るこの位置に建てるよう工事人に話しました。こうして、ここに道標が蘇り(よみがえり)ました。』 大正8〜9年頃、ここに建てられた道標は、昭和55年頃から18年間も地中に埋もれて誰からも忘れ去られていましたが、平成10年の夏、まさに残土と共にトラックで運び去られる寸前に、幸いにも山原様によって発見され、この道標は歴史的な復活を果たしたのでした。 |
【道標-10】 (桜町824番地、民家入り口に横倒しで保管) (撮影日:2005年1月17日) 移動:鈴木健一会員 以下は、2005年5月3日撮影 (当時、旧桜地区市民センター敷地内に保管中) (左:「道標−5 右桂谷」)、 (右:「道標−10 左かもり」) |
民家から移転された「道標−10」。撮影:2005年5月3日
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【屋外展示】 2005年7月8日 場所:桜駐在所の北側 左:「道標−5」、右:「道標−10 」 (2005年7月20日撮影) 設置:鈴木健一会員 |
2005年7月8日、上記二つの道標を元来の姿に模して屋外展示としました。 場所:桜小学校隣の桜駐在所北側(旧桜地区市民センター敷地内) この二つの道標は、昭和50年代に土地開発や道路整備工事の過程で、邪魔となり、本来の設置場所から撤去され、危うく近代化の波に押され消え去るところでした。 幸いにも、「大正時代のかけがえのない歴史的遺産」を守ろうと熱い情熱に突き動かされた人々の世代間を越えた連携が実を結んで、こうして無事保存展示するに至りました。 どうぞ皆様、ご自由にお立ち寄りいただき、大正時代の手作りの道路標識を実際に手で触れて、その温もりをお確かめください。 |
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3.服部泰次郎について |
出生 | 安政元年(1854)、三重郡小杉村(現四日市市小杉町)に生まれる。 |
生立ち | 読み書きは末永や坂部の寺子屋で学ぶ。14,5歳から父親の半農半商の手伝い、農閑期には天秤棒で小間物や雑貨を担いで行商して商売のコツを覚える。 |
職業 | 29歳の頃、米穀商を営み、近隣の村々で買い集めた米を、四日市港から横浜へ船積みして、伊勢米の販路拡張に尽くす。 日清・日露戦争時には、軍用米扱い業者となり、その後、アメリカやカナダへも日本米を輸出し、県下屈指の米穀商となる。 |
道標建立の動機 | 行商をしていた若い頃、道を間違え苦労した経験から、村々の辻に道標を建てる事を、永年、念願としていました。 |
建立を始めた年 | 大正8年3月、道標建立を三重郡役所へ申し出る。 |
道標造り | 当時の郡長の計らいで、千草村の石工仲間が朝明石を石材に刻み、三重郡内29ヶ村の全部の辻に建てるのを目標とする。その数は不明。 |
他界、念願成就 | 大正9年2月29日、67歳で永眠。 道標建立の夢がほぼ実現した頃でした。 |
参考資料:『続ふるさとの生活誌』(桜郷土史研究会編集)、Webページ『北勢地方の道標』。『こものがたり第三集“続歴史こばなし”』。『広辞苑』岩波書店。
このページの人名を含む個人情報は、全て当桜郷土史研究会のホームページに掲載する旨の御許可を得ております。
2002年4月調査、5月13日掲載、2004年6月1日更新、2004年10月21日更新、2005年1月19日更新、2005年5月3日更新、2012年6月20日更新
協力: 鈴木健一会員、故藤岡修氏(四日市市桜町桜ヶ丘)
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