「疱瘡の神」信仰
- 往古より、適切な治療法や予防法が無かったので、人々は疱瘡を御霊の祟りと信じ、疱瘡を村の外へ送り出す「疫病神送り」をするなど呪術的信仰に頼らざるを得ませんでした。
こうした「疱瘡神」信仰は少しずつ形態は違っても日本各地の多くの場所でかつては見られたようです。
桜地区の「疱瘡の神さん」信仰
- 桜地区内の桜町西では、字砂子谷(あざすなこだに)にあった「疱瘡の神さん」に祈れば、疱瘡を免れ、または疱瘡に罹(かか)っても軽く済むと信じられていたので、お供え物用に新しく桟俵(さんだわら)を作ってお餅、おだんご、赤飯などを供えて祈ったそうです。
現在では、こうした疱瘡の神さんの信仰形態を知っていると証言する人は、大正〜昭和初期生まれで、しかも桜町西区に住む人に限られています。
面積約12ku、人口約2,500〜2,600人前後で明治期から昭和19年まで推移した桜地域内で、信仰・習俗の形態に大きな差異など無く、どの字々にも「疱瘡の神」信仰はあったと思われますが、今では桜町西以外には、そうした言い伝えの一端さえも残っていません。
更に時代の趨勢で、桜町西区の人々も「疱瘡の神さんという信仰が自分たちの地区にあった」ということさえも知らない人のほうが多くなってきています。
なぜ、「疱瘡神」は桜地区から消滅したのか?
- 考えられることは、上記掲載の【註:天然痘】でみたように、明治42年以降全国的に種痘が実施され、以降、科学的予防法は驚異的な効果をもたらし、当地では大正・昭和に入ると一人の罹患者も出なくなり、村人は疱瘡の脅威から急速に解放されたと考えられます。
そうなると「疱瘡の神」の役目は終焉し、必然的に人々の記憶から薄れ消滅の道を辿ったと推定されます。
「山の神」信仰はなぜ残ったのか?
- 五穀豊穣と柴・薪・山菜など山の恵みをもたらす「山の神」は、農民の日常生活に密着していたが故に休養と親睦と、そして同じ字(あざ)に暮らす人々の団結を兼ねて継承されたのだと考えられます。
・・・近代的農法が導入され、化学肥料や機械化で農作業は格段に楽になりましたが、「今なお人知の及ばない偉大なる自然を畏れる心を忘れてはいけない」と考える人々が桜地区には未だたくさんいて、そうした人々によって「山の神」が守られている・・・と聞き取り調査で感じました。
桜地区では以上の様な理由で、「疱瘡の神」信仰が「山の神」信仰よりも先に廃れたと考えられます。
「山の神の掛軸」と「疱瘡の神」
- 「八衢比古命・八衢比売命」の掛軸は、明治12年神宮教桜分教会所が現在の桜町南区公民館の西に創設された頃、西の平(現・桜町南)、山上(現・桜町山上)、斧研(桜町西)の3つの字に数本ずつ恵贈されました。(詳細は、「山の神祭事」のページへ)
- 「八衢比古命・八衢比売命」が、「往古より村の辻々に座して外から侵入してくる邪神を防ぎ、かつ疫病退散の神」と信じられていることから、この二神の掛軸を掲げて山ノ神祭事をすることは、とりもなおさず、「疱瘡の神信仰」と「山の神信仰」は当地の人々にとって同次元として捉えられていることを表しています。
「山の神」と「疱瘡の神」の合祀か?
- 桜町西では古くから「疱瘡の神」は、“疫病退散の神”すなわち「道祖神」として村人の篤い信仰を集めていました。
- 一方、桜町山上では「道祖神」の掛軸が主体の「山の神祭事」が現在に継承されています。
上記2点を考え合わせると、以下のことが推定されます。
- 桜町「山上」に於いては、神宮教本院から掛軸を恵贈されると人々は崇敬の念で受け入れ、以来「山の神」と「疱瘡の神」を合祀する形で、掛軸を伴う山の神祭事が継承されてきたと考えられます。
- それでは同掛軸を恵贈された桜町西の「斧研」の場合はどうであったか?
恐らく、掛軸を受け取った当初からある時期までは、「山上」と同様に掛軸を伴う山の神祭事を催行していたであろうと推測されます。
その後、明治32年「神宮教」が「神宮奉斎会」となり、次に明治42年「一村一社の神社合祀」となったのを機に、斧研の人々の信仰は、再び身近にある「疱瘡の神」の石体に向かったのではないかと推定します。
- 【2005年11月の調査時に新たに判明したこと】
「「山の神の掛軸について」のページに、斧研には掛軸は残存しない・・・とありますが、その理由は「神社合祀で山の神の御霊を移す際、掛軸も椿岸神社へ納めた。」と年寄りから聞いている。」と、桜町西区斧研近藤善治氏より証言を頂きました。
この証言は、二神の掛軸が手元に無ければ、村人の心の拠りどころとして「疱瘡の神さん」の石体に向かうべくして向かったことを傍証していると思います。
- やがて、大正時代から昭和初期にかけて、年を追うごとに疱瘡の脅威は薄らぎ、周辺の字々が「疱瘡の神」を捨て去る過程にあっても、「山上」の人々が「山の神と道祖神(掛軸)」に信仰をおいたように、「斧研」の人々は「疱瘡の神」と「山の神」を別々に信仰し続けたのではないかと推察します。
こうして桜地区内の同じ掛軸を所有した別々の字で、異なる信仰形態・習俗に発展した興味深い現象と捉える事ができます。
ー 以上 ー
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