(三重県四日市市桜地区の年表) アンダーライン付きの項目は、関連ページにリンクしています。 |
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時代 | 西暦 (元号) |
桜 地 区 及 び 近 郷 の 出 来 事 | |||||
縄 文 |
BC1万〜 BC300年頃 |
桜の縄文遺跡は所在地別に2つのグループに分けられる。「四日市市桜地区遺跡地図」へリンク
*野々田遺跡と北野B遺跡は旧石器時代に属する可能性もあるとされる。 |
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弥 生 |
BC300〜AD300年頃 | 弥生時代と断定できる遺跡はないが、三ノ高丘遺跡では弥生式土器片が採取され、縄文から弥生時代にかけての遺跡と考えられている。 | |||||
古 墳 |
300〜 500年頃 |
二つの古代集落が形成される。
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飛 鳥 |
700年前後 |
智積廃寺(ちしゃくはいじ)創建、その後100年くらい存続。 (四日市地域最古の寺院跡。寺の名は不明) |
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奈 良 |
710年 (和銅3) |
平城京に遷都 | |||||
740年頃 (天平12) |
社伝によると、今の桜町西区字椿尾に椿岸神社(つばききしじんじゃ)が創建される。 | ||||||
平 安 |
794年 (延暦13) |
平安京に遷都 | |||||
927年頃 (延長5) |
「延喜式」に椿岸神社の名あり。 | ||||||
962年 (応和2) |
三重郡は伊勢神宮の神郡となる。(村上天皇、三重郡を伊勢神宮に寄進) | ||||||
1160~67年 (永暦元〜仁安2年) |
智積御厨 |
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鎌 倉 |
1185年 (文治元) |
源頼朝、全国に守護・地頭を設置。 | |||||
1200年 (正治2) |
多宝山智積寺(たほうざんちしゃくじ)創建 (鎌倉幕府第二代将軍源頼家より鐘が寄進される・・・伝承あり) |
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文永年間 (1264〜 75年) |
この頃、「智積御厨」の境域は瓜生(うりゅう)郷、森郷(以上2郷は現・菰野町)、衣比原(えびはら)上・下二郷、小林郷、庭田郷に広がり、所有権(領家職)は西園寺家が相伝していた。(『藤原公行譲状案』) | ||||||
1330年頃 (元徳2頃) |
智積御厨の領家(御厨の所有者)は |
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1334年 (建武元) |
建武の中興、天皇親政 | ||||||
南 北 朝 |
1336年 (建武3) (延元1) |
足利尊氏が持明院統の光明天皇擁立、後醍醐天皇が吉野潜幸。(南北朝分立) | |||||
1341年 (暦応4) (興国2) |
吉野朝廷に奉仕した藤原隆信、南朝後村上天皇の綸旨を受け佐倉に築城。このとき官位が中将であったので佐倉中将隆信と呼ばれた。(参照:『紀伊続風土記』紀州藩編纂1839年(天保10)) | ||||||
1346年 (貞和2) (正平元) |
佐倉中将隆信、家臣平賀蔵人の謀反に遭い北朝(武家方)の伊勢守護仁木義長に敗れ、逃れて紀伊国牟婁郡三木荘九木浦(現・三重県尾鷲市九鬼町)に匿われる。その後、藤原姓を改め九鬼姓を名乗り、築城して水軍を養成し九鬼水軍の祖となる。(『紀伊続風土記』、『おわせの浦村』伊藤良著) | ||||||
1369年 (応安2) (正平24) |
小林丹後守重利(しげとし)、伊勢国司北畠氏の指図で一生吹山麓の字御城新田(今の御所新田)に初めて築城住す。(『明治十七年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』) | ||||||
室 町 |
1392年(明徳3・元中9) | 南北朝の合一 | |||||
1418年 (応永25) |
「桜郷」、智積御厨内の一郷として初見。(『守護土岐持頼遵行状案』) | ||||||
1428年 (正長元) |
(正長の乱)12月、伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)は、両朝和平の条約不履行を不満とし小倉宮聖承を奉じて挙兵。幕府方の伊勢守護土岐持頼と激闘の末、伊勢国安濃郡岩田川付近で戦死。 その後、里人が満雅の冥福を祈って桜岡山長福寺(現・地蔵堂の前身)を建立。 |
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永享年中 (1429〜41) |
多宝山智積寺、兵火のため堂宇焼失。 草庵を建てて什器類を安置する。 | ||||||
1430年 (永享2) |
菰野町神森の賀保寺の鰐口(わにぐち)が造られる。 1430年当時、賀保寺とその周辺地が智積御厨に属し、1458年(長禄2)『伊勢国智積御厨年貢帳』が記す「森郷」だと伝える貴重な物的証拠品。 |
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1458年 (長禄2) |
『伊勢国智積御厨年貢帳』に「中村郷」、「桜郷」、「一色郷」、「森郷」、「平尾郷」、「上衣比原郷」の郷名あり。(『伊勢国智積御厨年貢帳』) | ||||||
1461年 (寛正2) |
近江国神崎郡 |
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戦 国 |
1467〜77年 | (応仁元〜文明9年) 応仁・文明の乱 | |||||
1490年 (延徳2) |
教尊法師、現・桜町西区山上に一坊舎を創建して法蔵坊と号し、その土地を山上(やまじょ)と名付ける。 | ||||||
1499年 (明応8) |
智積御厨の領家・松木家が智積に移り住む。(『嚴助往年記』) 以後三代(宗綱、宗藤、宗房)にわたり80年間余り在住するも、度々京と当地を往来する。 |
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1504年 (永正1) |
教尊法師、智積に一宇造立。(現・桜岡山西勝寺) | ||||||
1505年 (永正2) |
教尊法師、桜一色に一宇造立、隠居して法蔵坊と称す。(現・華王山安正寺) | ||||||
1509年 (永正6) |
椿岸神社の獅子頭の舌裏面に永正六年の墨書あり。 | ||||||
1515年 (永正12) |
佐倉城主小林丹波守、三重郡北山田城主河嶋宮内との境地紛争戦で寺方城(若菜隼人)へ逃げた曽井城主志村忠相に味方して、菰野城主若尾図書と寺方城に楯籠る。勝利して志村忠相は無事曽井城へ帰る。(『保曽井物語』) | ||||||
1529年 (享禄2) |
椿岸神社(往古からこの時まで、字椿尾(つばきお)に所在)と小林山延福寺が兵火により焼失。 | ||||||
1530年 (亨禄3) |
智積寺本所(智積御厨を管理運営する役所)、夜盗により炎上。(『嚴助往年記』) | ||||||
1532年〜 1540年頃 | 天文年間の初め頃(1532〜1540年頃) 加賀姫、父松木宗藤に伴われて智積へ来る。 |
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1539年 (天文8) |
7月、佐倉城主小林豊前守重則、亀山の関一族・鈴鹿郡川崎の城主峯大和守盛定に攻撃され一生吹山の砦で迎え撃つも、多勢に無勢、止む無く矢合川(当時の川名は「智積川」)の北岸へ退く。しかし、頼みとする千種城からの援軍も無く、18才の若き城主は川端の”殿原の地”で自害。廃城となる。(当時、重則の嫡子の赤子(後の小林重定)は、赤水(あこず。四日市市赤水町)に逃れ難を避けた) |
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1540年 (天文9) |
千種城、六角氏・梅戸氏の勢力によって落城。(『証如上人日記』) | ||||||
永禄年中 (1558〜70) |
北畠満雅ゆかりの桜岡山長福寺、兵火で堂宇焼失。 ほどなく荘岡山全福寺と名を替えて再建される。 |
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1560年 (永禄3) |
椿岸神社、現在地・智積町字御所垣内(ごしょかいと)に「神明社」と相殿して再建される。 | ||||||
1570年 (元亀元) |
夏、曽井城主志村忠春、織田信長軍の北伊勢侵攻に備え、千種城主千種忠治と共に一生吹山に籠城する。敗北して一生吹山落城。続いて曽井城も落ち、志村忠春自害。(『保曽井物語』 佐倉城主小林氏についての記述は無い) | ||||||
1571年 (元亀2) |
佐倉城主小林重則の遺子小林重定、千草家の斡旋で北畠具教の許可を得て佐倉城を再興。 「長島一向一揆」 (1571年(元亀2)〜1574年(天正4))木曽三川河口付近の輪中地帯で、浄土真宗本願寺派の門徒らと織田信長と激しい合戦が三回に及んだ。 教尊法師の三男「安正寺」の次男藤四郎と三男藤八は「長島合戦」で討死。 |
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安 土 桃 山 |
1573年 (元亀4) |
織田信長、足利義昭を京都から放逐。 室町幕府崩壊 織田政権確立 | |||||
1580年 (天正8) |
延福寺中興の祖牛庵(佐倉城主小林家ゆかりの者)、小林山延福寺を再興。 | ||||||
1582年 (天正10) |
2月、佐倉城主小林重定、滝川一益軍に従い甲州(山梨県)武田攻めに出陣。帰還後朝明郡縄生村に200石の知行地を与えられる。 この滝川の軍に、教尊法師の孫山田藤四郎と藤八の兄弟が従軍し、上州(群馬県)沼田で戦死。 6月、本能寺の変。 この頃、小林重定の養子重忠(千草忠治の第二子忠正)、神戸(織田)信孝に仕える。 |
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1583年 (天正11) |
当地(伊勢)は織田信雄(信長の次男)の所領となる。 智積御厨消滅。 | ||||||
1587年 (天正15) |
智積御厨の領家・松木宗房、智積で残務処理を終え、加賀姫を残して京都へ帰る。 | ||||||
1590年 (天正18) |
当地(伊勢)は豊臣秀次の所領となる。 | ||||||
1594年 (文禄3) |
伊勢国の太閤検地が行われる。 荘園制の崩壊。 (耕地一筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢負担者を確定し、名主層の中間搾取が排除された。すなわち、1つの土地に1人の耕作者のみ認められた) |
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1600年 (慶長5) |
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、関ケ原の合戦 美濃国不破郡関ケ原を主戦場とした野戦 |
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1600年〜 幕末 (慶長5〜 慶応3) |
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江 戸 |
1603年 (慶長8) |
徳川家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く | |||||
1605年 (慶長10) |
智積御厨の領家松木家の息女加賀姫、京都伏見神社の祭神を勧請して幸田神社(現・椿岸稲荷神社)を創建。 | ||||||
1614〜15年 (慶長19〜 20) |
大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣) 佐倉城主小林重忠(小林重定の養子)、亀山城主松平下総守忠明(幼名清求jに従い大坂へ出陣する。 |
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1618年 (元和4) |
佐倉城、廃城となる。 (江戸幕府が大名統制策として1615年(慶長20)に出した一国一城令による) |
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寛永年中 (1624〜44) |
小林道順(重忠の嫡子)の頃、佐倉城の城郭は取り壊される。 城跡に子孫が明治末頃まで居住。 |
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1636年 (寛永13) |
水沢村と智積村山野争論 智積村の者が水沢村領内に入り畦草を刈り取る。近郷の中村(六名村)・和田村(和無田村)・森村の仲介で、智積村が詫状一札を入れて解決。 |
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1672年 (寛文12) |
鳥居道山入会地境界論争 鈴鹿山脈の鳥居道山(現・国見岳)の東側の山谷は、佐倉村、桜一色村、智積村を含む三重郡18ヶ村の入会地であったが、菰野村の者が、入山していた入会村の者から鎌を取り上げたことに端を発し、入会村と菰野3ヶ村とのあいだで境界論が生じた。入会村のうち17ヶ村が幕府に訴え、裁定の結果、鳥居道山の南境界が明確に定められた上で、入会側の勝訴となる。 |
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1711年 (正徳1) |
四日市陣屋代官石原清左衛門正利、三十三間筒を官費で伏替える。(この頃、智積村は幕府領) | ||||||
1729年 (享保14) |
多宝山智積寺の半鐘、改鋳される。 現在、この半鐘は愛知県海部郡美和町の慶雲寺に在り。 |
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1733年 (享保18) |
佐倉村、桜一色村、智積村山野論 佐倉・桜一色両村と智積村の間で入会山野争論が起こり、境界に「境塚」を築いて絵図を作成し証文を取り交わして和談となる。 この時に作成された絵図『佐倉村、櫻一色村、智積村山野論立会絵図写』に、下雨池(通称・雨池)が描写されている。 関連ページ『雨池用水と大師堂』、「境塚」観察記録 |
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1777年 (安永6) |
智積村と森村(菰野町神森)の智積養水争論。10年後の1786年(天明6)和解。 11月、字西の平の桜観音堂再建。(本尊聖観世音菩薩) |
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1818年 (文政元) |
新雨池(通称・瓢箪池)、智積村字雨池に築造される。関連ページ「雨池用水と大師堂」 大溜(通称・池の溜(いけのため))、佐倉村字池の谷に築造される。関連ページへ |
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1844年 (弘化元) |
桜一色村庄屋石川貞永通称平八郎、製陶業を起こし「桜焼」を制作。星光山貞斎と号す。文久2年(1862年)に逝去、惜しくも19年一代限りとなる。 | ||||||
1851年 (嘉永4) |
大谷池(通称・弁天池)、桜一色村字大谷に築造される。 池の畔に厳島神社の祭神・市杵島姫命(通称弁天様)を祀る。 |
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1853年 (嘉永6) |
森村(現菰野町神森)と智積村の間で智積養水争論が再燃、翌年結着。 | ||||||
1854年 (嘉永7、安政元) |
6月15日午前1時頃大地震発生(安政伊賀地震)。 【被害】桜一色村:死者女3人、家屋全壊18戸、安正寺本堂・表門倒壊、 佐倉村:家屋全壊24戸。 智積村:西勝寺と延福寺の本堂倒壊、他は不明。 11月4日、安政東海地震発生。 翌5日、安政南海地震発生。 11月27日、内裏炎上、地震、黒船来航など災異多発のため「安政」と改元。 このため改元前の地震も「安政」を冠して呼ばれる。 |
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1854〜56年(安政元〜安政3) | 智積村と平尾村井組との用水論 三重郡平尾村井組(現・水利組合)の寺方村と高角村が平尾村の南川原に横堀を付け用水を引き取ったため、これを川下の智積村が不服として争論となる。安政3年に和解。 |
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1861年 (文久元年) |
和宮降嫁に伴う助郷(文久2年、皇女和宮と将軍家茂の婚儀挙行、公武合体政策) 智積村と佐倉村は中仙道の大井宿(恵那市本町)、桜一色村は御嵩宿(可児郡御嵩町)へ助郷が命じられた。(『大塚家文書 文久元年』) |
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1865年 (慶応元) |
四日市宿の助郷一揆 久居・津領の四日市宿助郷村10ヵ村の人足約400名、五倍賃銭不払いに対する不満から助郷総代・佐倉村庄屋佐野佐吉郎宅を襲撃。 |
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明 治 |
1868年 (明治元) |
明治初年まで、佐倉村と桜一色村は津藩領、智積村は天領と有馬藩領に属した。 1868年1月〜翌1869年6月、戊辰戦争 戊辰官軍に従軍した郷士・・・佐倉村と桜一色村の郷士8名(組目付・石川総兵衛、伍長・石川平八、伍長・石川丈三郎、伍長・佐野佐吉郎、兵士・田中丈平、兵士・清水文六、兵士・奥山佐左衛門、兵士・石川由左衛門)は、元郷士たるを以って、領主より京都警衛を命じられた。慶応4年戊申正月、鳥羽・伏見の戦が勃発し戊辰戦争に突入し、津藩が守備した山崎で戦い、続いて武蔵・安房・上総・下野の戦場を転戦し、江戸に帰り上野・小田原戦争まで伊賀藩士と一様に働き官軍として従軍した。然るに、廃藩の際、郷士の称号を廃せられて今は平民なり。(出典・『明治十七年伊勢国三重郡櫻村地誌草稿』) 関連記事「戊辰の役と当地区藤堂藩無足人の戦の跡」へ |
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1871年 (明治4) |
7月、廃藩置県。 現県域は安濃津県と度会県となり、当地(佐倉村、桜一色村、智積村)は安濃津県に属す。(智積村の幕府領は慶応4年大津県、明治2年度会県に属し、方や有馬藩領は明治2年吹上県に属したが、共に明治4年安濃津県に編入される) | ||||||
1872年 (明治5) |
3月、安濃津県は県庁を三重郡四日市町の旧陣屋(現・四日市市立西小学校の地)に移し三重県と改称(県名は県庁所在地の郡名を用いる原則)され、当地(佐倉村、一色村、智積村)は三重県に属す。翌73年12月、四日市の県庁が手狭などの理由で安濃郡津へ再移転するも県名はそのままとなる。 大区小区制が実施され、当地(佐倉村、桜一色村、智積村)は第一大区六ノ小区となる。明治4年戸籍編成のために設けた"区"を発端とする地方制度で、数字で行政区域が表された。江戸時代からの大庄屋、庄屋、肝煎等は廃止され、大区(郡に相当)に区長・副区長、小区(5〜10村)に戸長・副戸長が置かれた。明治12年、「群区町村編制法」の施行で廃止される。 |
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1874年 (明治7) |
明治政府の「神仏分離令」など神道国教化政策により、小林山延福寺、多宝山智積寺、荘岡山全福寺(地蔵堂の前身)が廃寺となる。 | ||||||
1875年 (明治8) |
7月、佐倉・智積連合して多宝山智積寺を改築し人民共立仮小学校を創立。(教員2名、生徒男子85名、女子28名) 8月、佐倉村と桜一色村が合併して「桜村」となる。 |
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1876年 (明治9) |
三重県と度会県が合併し、現在の三重県となる。 10月1〜3日、椿岸神社社殿落成を祝して奉納大相撲が西勝寺境内で開催される。 12月21日、伊勢暴動で人民共立仮小学校となっていた多宝山智積寺焼失。 *この直後から明治14年に武佐小学校が新設されるまで、智積の小林山延福寺(薬師堂)を仮校舎とする。 |
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1879年 (明治12) |
4月、多宝山智積寺の焼跡地に人民集会所を新築。戸長役場と神宮教桜分教会所を置く。 7月、「郡区町村編制法」制定。従前の「大区小区制」が不評のため、従来の郡町村制に戻し、戸長を民選として地方自治を認めたが、郡長と府県長は官選とした。 7月、字 (関連ページ「桜の史跡NO.3 金刀比羅宮」のページの「人民共立学校 高岡学校」へ) |
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1881年 (明治14) |
10月、字中繩手に桜村・智積村・神森村の連合で |
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1884年 (明治17) |
4月、桜村と智積村で地誌完成。(『明治十七年調 伊勢国三重郡桜村地誌草稿』、『明治十七年調 伊勢国三重郡智積村地誌』) | ||||||
1885年 (明治18) |
7月、『伊勢国三重郡桜村・智積村地誌附属之6千分壱之図』完成。 字斧研の「人民共立高丘学校」は武佐小学校の分校となる。 |
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1887年 (明治20) |
「武佐小学校」を「桜尋常小学校」と改める。(生徒男176人、女103人) | ||||||
明治20年代 | この頃、茨尾(いばらお)のマンボが築造される。 | ||||||
1889年 (明治22) |
桜村と智積村が合併して「桜村」となり、各々桜村大字桜、桜村大字智積となる。(明治の大合併) 当時の人口2,473人、 桜村村長石川平八氏、 人民集会所に村役場を置く。 | ||||||
1897年 (明治30) |
三重県三重郡四日市町が市制を施行、四日市市誕生。(全国で45番目の市) この頃、乗合馬車が桜村を通る。(菰野東町口から四日市まで一日3往復運行) |
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1901年 (明治34) |
「桜尋常小学校」、現在地(桜町1257)に新築移転。 (高丘学校は廃校となり一本化となる) |
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1908年 (明治41) |
「桜尋常小学校」、「桜尋常高等小学校」となる。 桜に製糸工場の操業開始。 養蚕農家の増加。 |
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1909年 (明治42) |
政府の一村一社の方針に基づき、桜村内の11社を椿岸神社に合祀。 合祀された11社・・・須賀神社(智積)、八幡神社(智積)、桜神社(南区)、幸田神社(南区)、桜岡神社(山上)、桜神社(一色)、稲荷神社(西区)、大谷神社(西区)、雅嵯良神社(わかさくらじんじゃ。西区)、浅間神社(一生吹山)、八幡神社(西別所)。同時に村内の「山の神」も合祀された。 *桜村青年団発足。現四日市市域23団体中二番目に早い発足。その目的は補習教育と地方改良運動推進。会員の年齢範囲は満17歳以上25歳以下。(桜村青年団関連ページ「釣谷林道」へ) |
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1910年 (明治43) |
*桜村処女会発足 現四日市市域14団体中一番早い発足。(桜村女子青年団の前身。13歳〜25歳までの未婚女子に対する補習教育の一環として組織される) 6月、桜村郵便局開局。大正12年、桜郵便局と改称。(桜村大字桜23番地) 初代局長:石川信吉(酒造業)昭和24年まで在職。 |
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大 正 |
1913年 (大正2) |
当地に軽便鉄道が通る。(四日市鉄道、四日市−湯の山間、蒸気機関車を使用) この頃、桜村で初めて自転車店開業。(東屋・平尾留松氏) |
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1919年頃 (大正8年頃) |
この頃、桜地区内に道標が設置される。(設置者:服部泰次郎・三重郡小杉村在住) | ||||||
1921年 (大正10) |
4月、当地にバスが通る。(菰野自動車、国鉄四日市駅−湯の山間) この頃、大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦に伴う好景気により、桜村は養蚕農家:250戸、製糸工場:9戸(他に座繰製糸4)、酒造業:4戸、醸造業:4戸、製茶業:5戸と繁栄し、旅回りの浪花節や映画も興行され大いに賑わう。 12月、四日市鉄道電化。(四日市−湯の山間、汽車の客車改造車を使用) |
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1925年 (大正14) |
*桜村処女会が敬老会を開催。(於・桜尋常高等小学校)伊勢新聞の記事となる。 (処女会員が手作り料理で75歳以上の老人53名を歓待) 出席者:小林繁太郎村長、助役、小学校校長、処女会員42名 |
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昭 和 |
1927〜31年 (昭和2〜6) |
1927年6月の旱魃時に端を発し、桜村大字智積が菰野町大字神森に対して智積用水権確認請求の訴訟を提起。 4年後の1931年4月、嘉永6年と7年(1853年と4年)当時の証文「為取替規定」に準拠して和解成立。 |
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1928年頃 (昭和3) |
昭和3年、三重県連合女子青年団結成。これに伴い桜村女子青年団も結成される。(推定)(桜村女子青年団関連記事へ) | ||||||
1935年 (昭和10) |
字斧研に金刀比羅宮建立される。 国防婦人会三重県本部発会式。この頃桜村国防婦人会も結成される(推定)。 |
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1935〜 37年 | (昭和10〜12年) 桜村青年団、釣谷林道の拡幅工事の奉仕活動。 |
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1941年 (昭和16) |
桜尋常高等小学校を「桜国民学校」と改称。 | ||||||
1947年 (昭和22) |
4月、「桜村立桜小学校」となる。(桜村立桜中学校を併設) 4月、桜村立桜中学校開校。(現桜小学校の位置、旧兵舎を移転改築) 1948(昭和23)年7月、桜・神前・川島三ヶ村で平和中学校と名称変更して開校。(同場所) 1954(昭和29)年7月、四日市市に合併して「桜村立桜小学校」から市立桜小学校となる。同様に市立三滝中学校と改称。(同場所) 1960(昭和35)年10月、三滝中学校を神前地区(現三滝中学校)に移転。 1982(昭和57)年4月、市立桜中学校、三滝中学校より分離独立開校。(桜町1604) |
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1948年 (昭和23) |
ローズ幼稚園開園(私立)。 桜地区の人口増加に伴い、昭和48年桜小学校内に、市立桜幼稚園開園、54年桜幼稚園(新園舎・桜町1420)へ移転。 52年桜台保育園(市立)、53年あおい幼稚園(私立)開園。 |
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1954年 (昭和29) |
7月、四日市市に合併。三重郡桜村から、四日市市桜町と同智積町の2町となる。(昭和の大合併)(人口3,140人) | ||||||
1957年 (昭和32) |
桜郵便局、桜町161の5に新築移転。 | ||||||
1959年 (昭和34) |
伊勢湾台風襲来(四日市市内死者115人) | ||||||
1962~66年(昭37~41) | 昭和37年着工の智積養水路改修工事が41年に竣工。この時神森・智積両地区が管理地区や方法などの協定を結ぶ。 | ||||||
1964年 (昭和39) |
3月、近鉄桜駅、現在地に移転。(近鉄湯の山線、広軌となる) | ||||||
1967年 (昭和42) |
圃場整備事業に伴う第一次智積廃寺発掘調査。 | ||||||
1968~69年 (昭43~44年) |
東名阪自動車道路建設に伴う第二次智積廃寺発掘調査。 | ||||||
1969年 (昭和44) |
桜台団地の宅地開発始まる。昭和46年より漸次入居開始。 やや遅れて桜ケ丘団地開発始まり、昭和48年より入居開始。 |
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1970年 (昭和45) |
東名阪自動車道、四日市〜鈴鹿間の開通。 | ||||||
1971年 (昭和46) |
四日市市役所の桜出張所、安田屋前から現・桜小学校の南角へ移転。 | ||||||
1975年 (昭和50) |
県立四日市西高等学校開校。(桜町6100) | ||||||
1976年 (昭和51) |
桜郵便局、172番地の5に新築移転。 | ||||||
1977年 (昭和52) |
市立桜小学校から分離して、市立桜台小学校開校。 桜台簡易郵便局開局。 |
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1978年 (昭和53) |
身体障害者療護施設「エビノ園」開設。(智積町字大谷2896の1) | ||||||
1979年 (昭和54) |
7月、四日市スポーツランド・アスレチックコース 桜町西に完成 (関連ページ・・・「小林繁太郎村長彰功碑」へ) |
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1981年 (昭和56) |
2月、「桜郷土史研究会」発足。 宝木院七福寺完成。 県道140号(通称ミルクロード)、桜区域開通。 |
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1982年 (昭和57) |
桜町のシデコブシ、四日市市指定天然記念物に指定される。(桜町西区南山) 市立桜中学校開校。(桜町1604) |
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1985年 (昭和60) |
智積養水、環境庁の「名水百選」に選定される。 桜地区市民センター、桜小学校南角から現在地(桜町1933)へ移転。(昭和55年、市役所出張所を地区市民センターと改称) 桜花台団地造成始まる。62年より入居開始。 |
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1987年 (昭和62) |
桜新町宅地造成。平成2年より入居。 産業廃棄物処分場操業開始。(桜町西茅兀5473-1) |
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1988年 (昭和63) |
四日市中消防署西分署開署。(桜町8341番地) 桜町一色の大矢実氏、「桜村の元標の記念碑」建立。 |
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平 成 |
1992年 (平成4) |
椿岸神社獅子舞、四日市市指定無形民俗文化財に指定される。 国際環境技術移転研究センター(ICETT)完成。(鈴鹿山麓リサーチパーク内) 「三重用水」から農業用水の供給が始まる。 |
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1994年 (平成6) |
特別養護老人ホーム英水苑開設。(智積町中須34−1) | ||||||
1995年 (平成7) |
桜運動広場完成。(桜町6900) 多目的広場(ソフト、野球、サッカー、グランドゴルフ)とテニスコート6面。 | ||||||
1998年 (平成10) |
三重県鈴鹿山麓研究学園都市センター完成(鈴鹿山麓リサーチパーク内) →→2020年3月末廃止 四日市西郵便局開局(智積町北清水6227) 昭和54年より始まった桜地区内の農業基盤整備事業完了。 |
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1999年 (平成11) |
近鉄桜駅舎、駅前広場整備事業完了。 6月、初瀬ビオトープの谷メダカの学校開校。(一生吹山麓の字初瀬) |
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2000年 (平成12) |
桜地区ホームページ・「桜Webコミュニティ」発足。(「さくらコム」の前身) 「桜郷土史研究会」のホームページ開設。 |
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2003年 (平成15) |
桜郵便局、桜町1411の3(現在地)へ新築移転し業務開始。 | ||||||
2004年 (平成16) |
4月、桜地区ホームページ「桜Webコミュニティ」を「さくらコム」と改称して再出発。 | ||||||
2009年 (平成21) |
4月1日 桜駐在所(四日市西警察署桜警察官駐在所)、桜町1259番地-2に移転・運用開始。 |